言葉に縋る

 

「ああ,わたしは言葉に縋っているんだな」

天気がよく暖かい陽射しを感じながら横断歩道を渡りコンビニを横目に駐車場を通り過ぎようとしているときにこの言葉が降ってきた。わたしの頭の中に。いつの間にか。自然に。その声はそう言っていた。その声を聞いて,今度は自分の意志で「わたしは言葉に縋っている」,そう繰り返して「ああ,やっぱり」と腑に落ちた。そうだったんだと。

いつもそう。わたしの思考は「考えよう」と力を込めて言葉を紡ぎ出しているのではなく,勝手に声が頭の中を流れていく。言葉を,文章を繋いでいく。まるで誰か,どこかにいる相手に語っているかのように。そうして,突如,予想しない言葉が姿を現す。気付いたら声がそう言っている。でもそれはすっとわたしの中に入る。わたしの物になる。

 

怖いのは一度形になってしまった言葉の影響力は凄まじいものだということ。わたしにとって。一度納得してしまったら,それはわたしの中に居場所を決める。事あるごとにその言葉が頭をちらつく。でもそうやって言葉になることで,何か形を得ることで,今までふわふわ漂っていて拡散していて自分でもはかりきれなくて不安さえあったものを掴まえて自分の目の届くところに保管できるようになった安心感もある。声がする,言葉になる,わたしが理解できる。自分の中になる「何か」を放出する,わたしにとってそれは「言葉」にするということ。言葉にする,それはほぼ意志とは無関係に勝手に頭に浮かぶ声を読み取って文字にする,という作業なのだけれど,「文字」まですることが実は大事だったりする。文字にしないと,目に見える形にしないと,頭の中に声が鳴り響き,ずっとぐるぐるして頭が重くなってくる。声が止まらない。ずっと何かを喋り続ける。頭の中に浮かぶ声は取り留めもなく言いたい放題だから追いかけているときりがない。でも聞こえてくる。時々,思いもかけない言葉の出現にはっとする。だから,その声をどこかに取り出さないといけない。それが形にするということ。短いひとこと,単語で取り出してただそのままに並べるときもある。こうやってよくわからないけれど浮かんでくる声のままに手を動かして文字を打つこともある。少し速度は遅くなるけれど,ある程度意志をもって整理した上で出したいときは,鉛筆を持つ。色々。でもそうやって吐き出すとすっきりする。出せば出すほど次の言葉が生まれてくることもあるけれど,言葉が氾濫している感覚は小さくなる。目まぐるしさが落ち着く。自分で形にした言葉を大事にできる。

そうやってわたしは言葉に縋っている。でもその一方でその言葉に縛られてもいる。一度形にしてしまった言葉はわたしに付きまとう。自分を捉える言葉になる。自分を表現する言葉になる。一度生まれてしまうともう無視できない。忘れることもある。すぐに消えてしまうものもあれば気付いたらなくなっているものもある。でも声が聞こえたときの気持ちの揺れが大きいほど,その声は頻繁に現れる。すでに形を持ったものとして。自分で自分に呪いをかけていると思うときもある。いいのか悪いのか。

だからといって四六時中,声が頭の中を駆け巡っているわけではない。誰かと喋っているときはない。ひとりでいるとき。ひとりで何かをしているとき。それは声になってやってくる。いつもなら声が聞こえる状況でも,とても疲れていたりそれまでの負荷が大きかったり情報量が膨大だったりすると,声は生まれてこない。オーバーヒートしている感覚。頭の中からっぽ。自分で「ああ,今からっぽだな」って思う。要するに何も考えられないということだけれど。ひたすら言葉が生まれてくるときも無のときも。それはわたしにはどうしようもない。けれども,わたしは常に何かを言葉にしたいと思っているのだと思う。言葉にすることで満たされている。それは自分自身に対して。自分がいる世界について。そうやって言葉を生み出すことで安心する。自分がいる世界を捉える。言葉に縋って生きている。