あれもこれも。
1. TRUMPシリーズ ミュージカル『ヴェラキッカ』
2022年が始まって早々にものすごい作品を観てしまったと思った。ノラ様を愛しました。
2. 「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」
ヘドウィグが目の前に現れて歌い始めた瞬間に涙が流れた。
この作品に触れるたびに自分の中で生まれる感情を表現することは難しい。演者が違っても”ヘドウィグだ”って思って心が震える。ヘドウィグの歌声を聴くと身体の奥底が震える。
3. MANKAI STAGE『A3!』ACT2! ~SPRING 2022~
演劇だからこそできる演出にぞくぞくした。
原作ゲームで言及されている“演劇とは“を実際の演劇で体感することができるって舞台化の醍醐味だしめちゃくちゃ楽しい。原作でそれそれ!って思いながら読んでいたことをこれこれ!って思える。一方で、劇中劇では原作ゲームでは捉えにくい舞台演出(のひとつの提示)を観られることも楽しみで毎回新鮮な感動を覚える。
MANKAI STAGE『A3!』ACT2! ~SPRING 2022~ 公式サイト
4. 舞台『淡海乃海-現世を生き抜くことが業なれば-』
誰のために何のために行動するのか。それぞれの想いがぶつかりあい新たな歴史が作られる瞬間を目の当たりにして心を揺さぶられた。涙が止まらなかった。みんな、命を懸けて生きている。
5. ワーキング・ステージ「ビジネスライクプレイ2」
あんなに笑い続けていたのに最後の“明日からも頑張ろう“で泣けてしまうのはどうしてなのだろう??「今出来ることは何だろう」に支えられたことがあったな。
ワーキング・ステージ「ビジネスライクプレイ2」| 2022年6月公演
6. COCOON PRODUCTION 2022 DISCOVER WORLD THEATRE vol.12 『みんな我が子』 -All My Sons-
幕が降りたあとしばらくは、胸を押さえつけられているように息苦しく、打ちのめされて心身が鈍く、動く気力がなかった。劇場の空気も重苦しいまま動かないように感じて、そろそろと息を吐き出した頃にカーテンコールが始まった。
みんな我が子 -All My Sons- | シアターコクーン | Bunkamura
7. オフ・ブロードウェイ・ミュージカル「Forever Plaid」
ずっと楽しかったのに、いよいよとなってフランシスが喋るのを聞きながら、初演から9年かあ、色々なことが変わったなあって思い出し始めたら急に涙が込み上げてきて泣いてしまった。SOPHIAのこと、V6のこと、そして自分のことを思って。様々なことが変わるくらいに長い期間であったにも関わらず、またこうして同じ演者で観られていること、でももうこれで終わりだということを思いながら。ありがとう、またね。
フォーエヴァー プラッド 公式ホームページ | Forever Plaid
8. 『THE BOY FROM OZ』Supported by JACCS
ピーターの言葉を聞いてぼろぼろ涙を流しながら“私も生きよう“って思った。
ピーターの目の前には大勢の観客がいたのに、その言葉は“私に向かって“真っ直ぐ届いてきた。自覚している以上に私の中に重く深く刺さっているのかもしれない。
9. MANKAI STAGE『A3!』ACT2! ~SUMMER 2022~
今年の夏の思い出!観るたびに新しい感動があって変化を感じて劇団員がいまこの瞬間を生きているってことを強く感じた。
初日Ver.を観た上での千秋楽Ver.の観劇は物語として描かれているものを“理解する“だけではなく、実際の公演初日から千秋楽までの変化を“体感する“ことで、そこで表現されているものが意味することやそのおもしろさ感動が何倍にも膨れ上がる、いろんな感情が渦巻く新鮮な体験だった。演劇、楽しい!
MANKAI STAGE『A3!』ACT2! ~SUMMER 2022~ 公式サイト
10. 三人芝居「オブセッション」
物語が閉じられたあとの暗闇で言葉にならない感情が押し寄せてきた。その感情は冒頭から積み重ねられたものによって生み出されるものであり、重ねられたものは台詞だけではなくあの劇場空間で肌で感じていたもの、意識していなくても受け取っていたものも多分にあるのだろうなと思いました。
11. 一騎討ち Project 舞台「忘華 ~ボケ~」
それぞれの立場、想い、色々なことを考えずにはいられず、そのことによって自分の感情が何層にも重なって膨れ上がり、観客でありながらもっと近くで見ているようでもあった。鈴木の言動に対するまわりの戸惑いや緊張感、時間の流れが止まったような感覚、それを肌で感じると同時に私もその場に放り込まれているようで、あの臨場感は劇場だからこその体験だなって思った。
観劇した上でポスターの二人を見ると、そういうことなのだなあと胸がぎゅっとなる。そして公式HPにある二人の別の姿を見ると、ああ、これがってなる。
12. MANKAI STAGE『A3!』ACT2! ~AUTUMN 2022~
あまりにも美しい構成だった。
MANKAI STAGE『A3!』ACT2! ~AUTUMN 2022~ 公式サイト
13. コトリ会議『みはるかす、くもへい線の』
強烈な演劇体験。あれこれ考えるよりもあの空間で体感したものをそのまま丸ごと自分の中におさめておくべきかもしれない。あの世界と観客としての自分との境界も曖昧になっていたような気がする。
生きることは死ぬことだし死ぬということは生きているということ。
14. KERA・MAP #010 「しびれ雲」
人間ってこうだな、“生きる“よりもう少し身近な“毎日の生活をする“ってこういうことだなって思った。今日は昨日の続きだということ、誰かと関わりながら暮らすということ、明日やこの先のことはわからないけれどいまの自分がどうしたいかということ。ごめんちゃい、ありがとさん。
KERA・MAP #010「しびれ雲」 | 【公式】株式会社キューブ オフィシャルサイト
15. 演劇企画ユニット劇団山本屋「10号」『不器用な三角形は足枷を食いちぎる』(配信)
ばらばらにみえていたものが少しずつ繋がって積み重なって最後にものすごい熱量で放たれてそれを浴びて心身が揺さぶられるような感覚を覚えた。生きることとか未来のこととかを真正面から説かれると冷めてしまうことは多々あるのだけれど、そこまでに積み上げられてきたものと生身の人間の熱量で思考よりも感情を動かされてしまったと思いました。照明の効果が絶大だった。
劇団⼭本屋10号『不器用な三角形は足枷を喰いちぎる』公演情報 | 劇団山本屋
16. 舞台『イヴの時間』
喫茶店や人の温度を肌で感じる作品だった。劇場の雰囲気も相まって店内の空気が客席にまで広がっているように感じた。いつもの心地良い空間が掻き乱されたり緊張で張り詰めたり、そして新しく来た人が溶け込んで再び穏やかになる、そういう変化を体感できる、というよりその場に身を置いているような時間だった。それぞれが他者に向けるまなざしが印象的で、それだけでも様々なことが伝わってきた。
その状態を説明するような明確な言葉が台詞になくても、互いの関係性やその場所が変化したことを感じられる作品を好きだなって思う。場所や時間の移り変わりの演出が好きだったな。
17. ゲルハルト・リヒター @豊田市美術館
あの場所で目にしたもの、感じたことを忘れたくないなって思っている。
Toyota Municipal Museum of Art 豊田市美術館
18. 『SOPHIA LIVE 2022 “SOPHIA”』LIVE VIEWING
どんな気持ちになるのかまったく想像できないまま当日を迎えて、想像していなかった感情ばかりが湧き上がってきた。体験してみないとわからないことはたくさんある。
* * *
意識を向けているもの以外に舞台の上から受け取っているものは多いのだろうなと思う。
今年は舞台の上で生み出される空気を肌で感じる(と意識する)ことが多くて、自覚していなかっただけでこれまでもこうやって感じていたのだろうなって思った。それは客席の温度や緊張とは異なる、演者の熱量と言われるものとも異なる、舞台上の人たちの行動や感情によって生み出されるその世界での空気の質感。温度や緩急、軽重、そういうものが客席にまで広がってきて自分も触れているように感じることがよくあった。その瞬間の空気の震えが肌に刺さったり、物語の展開とともに空気が変化していく様がわかったり、あるいは幕が降りてから触れていたものに気付いたり。意識を向けていることもいないことも舞台上で生み出されるもの全てを身体のどこかで受け取っていて、そのひとつひとつが私の内側に蓄積されていくのだろうなと。
感情が動くとき、それを引き起こすのは目の前で起こったことだけではなく、私の中に積み重なったものも多分に影響しているのだと思う。思いがけない場面で唐突に涙が溢れるとか、ある瞬間に自分でも説明できない感情が強く湧き起こるという体験はよくあって、その理由には舞台上の何かが琴線に触れたからという場合もあるだろうし、それまでの時間で自分の中に積み重なったものが発散されたからという場合もあるのだろうなと、そんなことを度々考える一年だった。 肌で感じる何かを意識するたびに、劇場空間を含めての演劇体験なのだと強く思った。その劇場の雰囲気も舞台上の空間や客席で感じる空気を構成していると感じたことも多くておもしろかったな。
そんなふうに生々しいほどの空気を肌で感じる体験を多くしたことで思ったこと。演劇だから私は安心して心を動かされているということ。
目の前で生きる人たちがいてそこで放たれているものを直に受け取ることができる。それが私が演劇を好きな理由のひとつ。一方で、その世界は自分の世界とは繋がっていないということを知っているから安心して悲しんだり傷ついたりできる。楽しさも悲しさも嬉しさも怒りも強い感情は心身を消耗させる。普段の生活では、激しい感情を抱くことを避けるために意図して色々な物事(というより他者)から距離を取りながら過ごしている。『イヴの時間』にあったように誰かの心に触れるのは怖いし、自分の心に触れられるのも怖いから。それでも強く心を動かされることを渇望してもいるのかな。観劇ではそれが叶う。生身の人間が様々な感情を抱えたり剥き出しにしながら生きている。とてつもなく生々しいけれども、それは私の世界とは繋がっていないから私は心置きなく感情を解放することができるのかもしれない(もちろん現実での経験を重ねることはあるし、そういうときはしんどい)。日常生活ではできないことが可能になる空間。そうやって内面の均衡を保っているのかもしれないなって思うようになった。
そういうことを考えたきっかけのもうひとつは、SOPHIAのライブだった。会場にこそいなかったしあとになってからだったけれど、あのライブは演劇よりもっと鋭く深く容赦なく私の内面を抉ってきて自分と向き合わざるを得なかった。過去にも現在にも未来にも。長く聴いてきたバンドだから、活動を再開するライブだったからという理由も考えたけれど、一番の理由はパフォーマンスをする彼らがいる世界は私がいる世界でもあったからだと思っている。互いの世界は地続きであり切り離すことができない。彼らが楽曲にのせて放つメッセージは彼ら自身のもので、彼らと同じ現実世界にいる私に向けられたもの。そうであることを知っているから、なんというか、逃げることもできずに生々しい感情を受け取らざるを得ないのだと思う。でも逆も然りで、こちらが発するものもまた剥き出しのまま彼らに伝わっているはずで。そうやって互いの感情をぶつけ合う場所だったということを、「大切な場所」での松岡さんの言葉に泣きながら思い出した。
私にとってどちらがいいかということではなく、得ているものが違うのだろうなということ。
過去には事あるごとに自分や自分のいる世界について考えていたけれど(そのときのSOPHIAの影響は小さくはなかった)、そういう日常はとても疲れる。だからいまはそうならないようにあらゆるものから距離を取って生活をしている自覚があるけれど、まあそんなこと常には不可能なので、度々苦しむことになるし、気を抜いたらすぐに“私が私であること“に気が狂いそうになってしまう。そしてSOPHIAは無条件に私をそうさせてしまう、自分や自分の世界に向き合わざるを得ない状態にしてしまう存在なのだと思い知った。
心が動く感覚って快感でもあるけれど、怖くもある。 日常生活でも演劇でも音楽でも、結局私は“なぜ私はあのとき心が動いたのか“を考えてしまう。そして“なぜ“の先にあるものが自分が身を置いている現実世界であることは、“なぜ“と向き合うことを少なからず躊躇する理由になっていると思っている。そういう意味で、私がいる世界とは別の世界の出来事として安心して心を動かされる場所は必要だけれど、自分と向き合うしかない場所も必要なのだろうなと、この年に経験したあれこれを思いながら考えました。
どうしたって私は私から逃げ出すことはできないので、その事実を忘れて自由になれる時間を必要としているのだと思っている。