SOPHIA LIVE 2022 “SOPHIA” 2022/10/11

 
愛の讃歌が流れ始めた瞬間、メンバーがひとりずつ登場するたび、それぞれの音が鳴り始めるたび、そして最後に登場した松岡さんの表情をみて、言葉にできない感情のまま涙が流れるばかりだった。でもライブが進むにつれて、2013年8月12日の“次の“ライブを観ている、その感覚が勝るようになっていた。懐かしいとか9年間長かったとか短かったとかはあまり思わなくて。もちろん色々考えたり思い出すこともあったし、あちこちで涙することもあったけれど、それくらいあまりにも私の知っているSOPHIAで、変わっていないということはないはずだけれど、これまでと同じように楽しめて、歌詞の合間に入る松岡さんの言葉や楽器を演奏するメンバーの身体の動きにこれこれー!ってなったり(特に黒ちゃんがくるっと回る姿とか)二曲目のEarly summer rainの客席の振りをみてこれこれー!ってなったりとかした。会場で参加したわけではなく配信映像だったけれど、これまでのライブ会場で体感してきたものそのままのように感じた。会場だったらまた違う感覚になったのかな。
 
何よりも、メンバーみんながとても楽しそうに嬉しそうに客席を見ながらお互いを見ながら演奏している姿を観られたことが嬉しかった。ほっとしたというか。
こんな未来があったんだ。話されていたように時間が解決してくれる部分は確かに大きかったのかもしれないけれど、誰も何もしなかったら、動かなかったら、この日はなかったはずだから。
 
休止の理由とかそれにまつわる言葉とかそのあとのこととかをほんの少しみているだけでも、メンバーの関係性が大きく関わっているのだろうなって感じていたから(あくまで私が感じたことだし実際のところはわからないままでいいのだけれど)、再始動が発表されたときは大丈夫???っていう気持ちも正直大きかった。
公式HPに掲載されたメンバーのメッセージはそれぞれ違っていて、休止してからいままでそれぞれ違う想いで違う道を進んできて再始動を決めた理由もまったく同じではないかもしれないと感じたけれど、だからこそ、そんな5人が「この5人でもう一度SOPHIAをやる」と決めたことは間違いなく一致しているということで、それがとても嬉しかった。
それでもやっぱりまだ不安みたいなものはあって、FCが再開設されてコンテンツが更新されてあれやこれやが進んでいくのも半信半疑というかあまり実感ないまま眺めていて。でもそのなかでメンバーの言葉を受け取りながら、5人全員の気持ちが武道館に向かっているんだって思えるようになったし、5分の2ちゃんねるで都とトモの話を聞いて以前の関係性はやっぱりそうだったのかなって思うと同時にいまは違うんだなって安心したりして。ジルの愛はめちゃくちゃ大きくて深くてあたたかいね。黒ちゃんの文章をまた読めることが嬉しいしずっと猫が可愛い。そしてライブ中に流されていた映像を通して5人のSOPHIAに対する想いを感じたらもう大丈夫なんだなって思ったし、SOPHIAとしてライブをしている5人の表情をみたらもう納得するしかなかった。
 
MUSIC STAIONですでに5人が演奏する姿は観ていたけれど実感したのはライブだったから、そうだよなあ、私にとってはライブの方がずっと身近だよなあっておもしろかった。Mステのそのときも言葉にならない感情のままただただ涙が流れていたけれど、現実的ではない気持ちもあったから。
 
バンドを構成しているのは人間で、人間は変わる存在で、そんなことはSOPHIAの楽曲で何回も歌われていて、“永久未来続くものなどあるはずはない“ってちゃんとわかっていたし、こればかりは私が何かできるものではないから受け止めるしかないと思っていたけれど。そもそも一人ひとり違う人間が一緒に活動を続けるということ自体が簡単なことではないし。時間を経たからこそ上手くいく部分もあればそうではない部分もあるよね。時間の経過とともに人も変わっているのだから。そして一度止まったものを再び動かすことも簡単なことではないと思っている。それでも変わって変わって変わっていった先にまた5人が一緒に音楽をやるといういまが選び取られたことは、本当に奇跡みたいな確率かもしれないけれど、それぐらい5人にとってSOPHIAという場所は大きなものだったということかなと、色々な話を聴きながら、これまでのことを思い出しながら、勝手に想いを馳せる時間もありました。
 
そして、武道館にあれだけの人が集まっていたことに純粋に感動しちゃった。すごいよね。SOPHIAのライブに参加しようと来た人があれだけいるってことだもんね。

 

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始めはMCがなくて映像が挟まれていたから今回はこういう構成でいくのかなあって思っていたのだけれど、MCが始まったらまたこれこれー!ってなったし、松岡さんのどんどん溢れてくる想いを言葉にしているような姿をみてこうだったなあって思った。
その熱量の受け取り方は私の中で以前と同じではなかったけれど、こんなにも豊かで繊細でやわらかで敏感で熱い人が綴った歌詞だからこそ私は救われたんだなって、何回も思った。綺麗事ばかりじゃないこの世界を生きるということ、生きることは綺麗事ばかりじゃないということ、生きることを苦しんでもいいということ、私という存在を否定する気持ちを抱えたままでもいいということ、そんなことを、楽曲を聴きながら、MCを聞きながら何回も思っていた。いま振り返ると、かつての私は、世の中を恨んだり誰かに嫉妬したり落ち込んだり、そういうことってよくないこと、やってはいけないこと、すぐに断ち切らないといけないことだと思っていた気がする。それを、いいんだ、そういう感情なんてたくさんある、抱えたまま生きていいんだ、って気付くことができたのはSOPHIAの楽曲に触れたからだと思っている。それは歌詞だけじゃなくて楽曲として。ビューティフルはあのメロディだからこそ明るく深く刺さってちょっとだけ泣いて少し気持ちが軽くなるし、紅色の涙はあのメロディだから歌詞と混ざり合って一度聴いたら抜け出せないような響きがあるし。そういう生々しいSOPHIAの音楽に出会って、ままならない感情や苦しみを、私が私であることの息苦しさを、言葉にする術を得られたと思っている。良くも悪くも。自分のなかにあるものを言語化することで整理ができる面もあれば、言語化された自分の気持ちに囚われてしまうこともある。

 

生きることのままならなさに意識が向くようになったのはSOPHIAの楽曲に出会ってしまったから、言語化する術を知ってしまったからかもしれないけれど、言語化できていなかっただけで私の中にはすでにそういう葛藤があったからこそSOPHIAの楽曲に引き込まれたのかもしれないとも思っている。初めてマテリアルを聴いたときはあまり何も思わなかったのに、月日が流れてもう一度聴いたときには痛いくらいに刺さったことを思うと、音楽がはまる“そのとき“は確かにあって、そのときの私のなかにあったもにSOPHIAの楽曲が深くはまってしまったということなのだろうなと。
 
日々生きるなかで色々なものから多かれ少なかれ何かしらの影響は受けていて、そのなかでも自覚できるもののひとつがSOPHIAなのだと思う。SOPHIAの音楽に出会ったから、いまの私はこんなふうになっているのだろうなっていう考えはある。
それでもこの日初めて意識した歌詞、刺さってきた言葉、意味を伴って入り込んできた音があったから、私も変わったということかなと思った。いまの私、この日の私が感じた音楽だったのだろうなと。それぞれの歌詞があれにもこれにも重なる感覚、これは私がSOPHIAの音楽を通してずっと体験してきたことだったなってそれについては懐かしい気持ちになった。

 

そして、いまのSOPHIAが演奏するから、というものも確かにあって。私はALIVEでそれを強く感じた。
あのALIVEは、この時代、この日、この場所だからこそだったと思う。音源は何度も聴いた、ライブでも聴いた、でもどれとも違う。そもそもライブは同じ演奏なんて二度とないものだけれど、それだけではない特別さがこの日のALIVEにあった。命を削りながら届けられるALIVE、命を削りながら聴くALIVE。本当にそう思った。この日のライブだからこそ生まれたもの。ライブはその瞬間の生をぶつけあう場所で、だからライブに行きたくなるのだなって、いつもよりも苦しくなりながら、息が止まりそうになる痛みを覚えながら聴いていた。
 
一曲目の大切なものもそうだった。これがSOPHIAだなって思った。ヒマワリでもBelieveでもなく、大切なもの。復活一曲目は何かなって思うことはたびたびあったけれど、これをしてほしい、という気持ちはなかった。これまでのライブのなかで、いまの彼らが伝えたいことはこれなんだって、いつも思ってたきたから。だから、再始動する武道館のライブで最初に伝えたかったのはこれなのだとその想いが痛いほどに伝わってきた。
大切な場所である武道館から再始動することを実現させるなんてすごいって思ったし、ドラム、ベース、キーボード、ギター、そしてボーカル、ひとつひとつの音が重なっていくのが、ひとりずつ集まって戻ってきたことと重なって。いまの彼らが伝えたいのはこれなんだって痛いくらいに感じた。
 
休止期間中、松岡さんの歌声が好きだなって思うことは何度もあった。演劇作品で聴いたときには、松岡さんの歌い方だなって思うと同時にこんなにも感情を含められるんだ、広がりがあって温度があって色があるんだって、心を揺さぶられていたし、音楽で、ライブで聴いたときには、私はやっぱりライブでボーカリストとして歌う松岡さんの歌声が好きなんだって思った。MICHAELのライブで聴いたときには、休止直後、第零章だということもあって、歌声のなかにある彼の痛みのようなものを勝手に感じていた。それでも、“SOPHIAのボーカリスト“として歌うときはどれとも違うもので、ああ、これだって思った。音源とも違う。SOPHIAの音で歌われるSOPHIAの楽曲。もっと生々しくて色々な感情が剥き出しになったもの。
大切なもののときの言葉、ひとことずつ区切って言っていて、あの「ただいま」はなんていうか、本当に心からのというか、剥き出しの叫びだったな。登場したとき、駆け上がってきて立ち止まって唇を噛み締めてるようにみえた姿が印象的だった。

 

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あとからこの日の大切なものを思い出してすごく泣いた日があった。呻くようにして身体が痛くなるくらいに泣いた。当日はSOPHIAの姿をみながらただただ涙が流れてわけもなく泣いていたけれど、このときの涙は自分に対してというか、自分のなかにあった感情が外に出たというか。自分のことで泣いた気がする。
 
私も、歯を食いしばって生きてきたんだ、って思った。
 
当日も松岡さんの言葉に震えたけれどSOPHIAの姿を観た感情とごちゃまぜになって受け止めきれていなかったのかもしれない。SOPHIAがいなくて辛かった、ではなく、私、必死に生きてきたんだなって。
そういうことを気にせずあまり考えずに生きるようになっていて、それは大人になったから、自分の扱いがうまくなったからだと思っていた。でも、違うかったのかもしれない。余裕を持って生きているふりをしたかっただけかもしれない。いつもSOPHIAのライブで、SOPHIAの音楽を通して嫌でもそれに向き合わされてたのかもしれないなって思った。それを久しぶりに経験したのかもしれない。
 
あの日の武道館の大切なものを思い出して泣きながら、私、結構ぎりぎりだったのかもしれないなって思った。SOPHIAとは関係なく。ちょうど落ち込んでいるなって自分でもわかるときだったからかもしれないけれど。
昔はそういうときはSOPHIAの楽曲聴いていたのに、この9年間、そういうことはめっきり減ったと思う。聴かなかったわけじゃないけれど。それでも聴くと気付かされるんだよね。自分のなかにある苦しさ辛さ葛藤に。松岡さんの言葉は、MCも歌詞も、そしてそこにある楽曲も、そういう感情を表に出してくる、おまえらもそうだろ?って投げかけてくる。自分たちのそういう感情をあえてみせて、それをライブで楽曲でぶつけてくる、私たちもぶつける。抱えているものはそれぞれ違っていて、その中身をわかりあうことはできないかもしれないけれど、それぞれが自分の場所で、自分と、誰かと、何かと、戦っている、その苦しさ辛さ痛み悲しさやり切れなさ、ときには諦め、もちろんそのなかで得られる楽しさ嬉しさも、そういうものがあるよなって言われて、私も自分のなかにある感情をぶつけてきた気がする。そして、それでもここに立っている、いまこの瞬間を生きているって思う。
 
この9年間、必死に生きてるよな、って言ってくれる存在が、これほど真っ直ぐに向き合って肯定してくれる存在が他にはあまりなかったということかもしれない。そういう存在を自分から求めて探すこともしていなかったということかもしれない。向き合うとどうしたって痛みを伴うから。私にとってのSOPHIAの存在。当日もそれについて何度も考えたし、いまもまた考えている。SOPHIAの楽曲を聴いているとライブにいると、そういうあの頃の感覚がまた蘇ってきてすごく不思議な感覚だった。SOPHIAのライブが懐かしいというより、いつもこんな気持ちになるな、の懐かしさはあったかもしれない。

 

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いまなら、MICHAELは“SOPHIAの旗を降ろさない“ための場所だったのだと痛いほど理解できる。第零章ではわからなかった。なんで愛の讃歌を流すのって思ったし。MICHAELがあったからその先にSOPHIAの再始動があったのだなといまなら思える。もちろんMICHAELだけがそうさせたわけではなく、松岡さんが言っていたように、それぞれがそれぞれの現実を生きてきたから、あの日を迎えられたのだと思う。何かが少しでも違えば再始動はなかったかもしれないけれど、あれほどのSOPHIAへの想いがあったなら、少しくらい違う道を歩んでいたとしてもその道は武道館につながっていたのではないかなとも思う。そうあってほしいなという願望かな。
再始動後のSOPHIAの活動について聞いたときは納得したし安心もした。一度限りの勢いでやる記念復活じゃなくて、この先も続けていこうとしているからこその現実的な見通しなのだろうなと。それは公式HPやFCの運営からもなんとなく理解していたかな。丁寧に大切に作られているなって感じていたから。SOPHIAに関わる人はたくさんいるのだなあ。
 
私のなかに深く入り込んでしまったSOPHIAの音楽だから、耳にすると私の意思とは関係なく心が掻き乱される。よく聴いていた頃のこととか、強く結びついているだろう出来事とか感覚とか、そういうものが一気に蘇ってきて溺れそうになるけれど、音楽ってそういうものでもあると思うし、私にとってのSOPHIAは特にそうなのだろうな。私がSOPHIAの音楽を聴くようになったときにはもう活動期間もかなり長くなっていたけれど、それでも新しく作られた楽曲がライブのセットリストに加わったり定番になったり、ここぞというときの楽曲になっていく過程をみられるのは、活動してライブをやっているからこそだったなって思いながら、武道館で演奏された比較的新しい楽曲を聴きながら思っていた。
音源さえあればいつでも聴くことができるけれど、ライブでの演奏が定まっていく過程はライブをやっていないと体験できないことだし、ライブで繰り返し演奏された楽曲だったとしても、その日だからこその演奏、そして、その日だからこその私の感受性があるから、バンドとして活動してライブをやる、そういう未来を想ってもらえていることが嬉しい。

 

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誰しもが明日死ぬ可能性をもっている。その可能性の大小は異なるかもしれないけれど、ゼロではない。そういう死を、明日の死ではなくても少し先の死を、あるいはいつか必ず訪れる死を、日常のなかでどのくらい意識しているかは、その人の状況や考え方、関心に左右されるかもしれないけれど。
死は必ずくるということ、明日死ぬ可能性もあるということ、死んでいないということ、死ぬことを選択していないということ、生きているということ、生きていたいと思うこと、生きていなければならない理由があるということ、そういう生と死の螺旋のなかで、ときには溺れそうになりながら生きている私にとって、SOPHIAの楽曲は拠り所になるものであったし、これからもそうなのだろうな。
 
再始動したその日はただただ楽しかった!という気持ちで満たされていたけれど、あとからこんなにもあれやこれやを考えてしまうくらいには、SOPHIAの楽曲は、ライブは、いまも私に突き刺さり揺さぶってくるものなのだなと思っている。
 

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