少年社中 第38回公演【DROP】2021/9

 

いまもまだ迷宮にいた時間を思い出す。私がみたのは夢だったのかなあって気分になる。でも「再生」と「再出発」のためにはあの迷宮で彷徨った時間が確かに必要だったと思っている。

 

Team Humpty、Team Dumptyの順に配信で観ました。"Humpty Dumpty"だからその順にならって。

 

長くはない公演時間だったし配信だったけれどとても濃密な時間だった。
何もかも初めてだったTeam Humptyは観終えたあとの消耗がすごくて、その後に観たTeam Dumptyは役者が変わるとこんなにも違うんだ!という驚きが強くて、2回目のHはすべて観終わったあとに込み上がるものがあって、2回目のDを観終えたときには色々なことに気付いて混乱してやっぱり消耗がすごかった。
観れば観るほどあれこれ考えたり自分の経験が引きずり出されたり登場人物の心情に近付いたように感じたりかと思えばわからなくなったりして、私の中の色々なものが消費されたからかもしれない。疲労困憊。

様々な可能性を考えれば考えるほどわからないことも増えた結果、たとえ作り手側に正解があったとしても私がどう受け取ったかでいいかなっていまは思っている。

卵が意味するものは何なのか、マンホールが何と何を繋いでいる/隔てているのか、どこからどこまでが小説/現実なのか、迷宮の登場人物が犯した罪や性格は何が投影されているのかいないのか、とか。そしてダブルキャストのなかでオービットとBadmanだけが入れ替わりだった意味とか。

 

観ながら感じたこと、考察ほど積極的ではないけれど考えたことを残しておきたかったので。ふたつのチームの違いとか展開にも触れます。

 

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オービットとBadman


小説家が紡ぐ物語の世界があの迷宮で、現実世界の人間を投影しているとして。現実世界で小説家と密接な関係にある夫と同じ名前のキャラクターを登場させる、小説家は夫の色々な面を知っているはずで、さらにHとDでキャストが対になっているBadmanがいる。そして迷宮でのそれぞれの描かれ方を踏まえると、オービットもBadmanも小説家から見た現実の夫が投影されていて、オービットは自分を見捨て去った冷酷な者、憎むべき存在として、Badmanは最後まで自分の側を離れない者、そうあってほしかった姿として創られているように感じた。

 

HとD


そう思うと最後に小説家の前にあらわれた彼は誰だったのだろう。Hではその手に卵がありDでは卵はなくふたりは直接手を取り合った。全体を通して、HよりもDの方がより明示的な表現になっているような印象だったかな。オービットが死人を見て「似てる」とこぼすシーン。HのあとにDを観て驚いた。そこも違うんだって。Hのときはもしかしてそうなのかもと思っていたことが、明確に表現される。死人がGoodmanに女王から聞いたと話す前の何か企むような表情も。最後の卵のあるなしもそれと合致して、それが終幕後の余韻も変えていたように思う。Hは小説に寄っていてまだ迷宮から抜け出せてはいない気がしたし、Dは迷宮ではない現実感がくっきりしていた。明示的に表現するかどうか(と私が感じたところ)は何がどこまで意図されていたのだろう。演出としてのHとDの違いなのかもしれないし、それぞれの世界の人物像の違いかもしれない。HのオービットはDよりも心の内を外には出さない印象を受けたから、「似てる」のシーンも“誰に“までは口には出さないというのは納得できるなってあとから思ったりした。HとDの違いはもちろんキャストの違いで、それによってこんなにも変わるのだと思いつつ、キャスト以外の違いも初めから意図的に演出されていたのか興味がある。「似てる」のところは台本を見る限り、Dでは台本にない台詞が足されたということだと思うから、Dで創り上げていくなかでその台詞が加えられ、私がHより明示的だと思ったシーンについてもそうなっていったのだとしたらとてもおもしろいなって思った。

 


Hでは小説家が自ら穴のなかに投げ入れた卵(と記憶している)はオービットの手によって再び小説家の目の前に現れ「明日」の象徴としてふたりに見守られる。一方、Dでは最終的に卵はBadmanの手に渡されて大切に持ち運ばれ、小説家とオービットは卵を介さずに直接手を取り合う。
卵を奪い合う、卵を捨てる、卵を他人に預ける、卵を温める。卵の扱い方はそこから生まれる「明日」との向き合い方でもあり、そうであるならHとDでは結末への辿り着き方も、結末さえも違うものなのかなって思った。少なくともいまほど色々考える余裕もなく観ていたときに受けた印象は違うものだった。

 

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最初はとにかくとんでもない作品を観た!という気持ちが強くて感情を抑えられていなかったけれど、(その後繰り返し観たとはいえ)いまだにこんなにも色々考えられる、考えてしまうのだからかなり心の奥深くに刺さっているみたい。

いままでにもダブルキャストトリプルキャストの作品や再演でキャストが入れ替わった作品も観たことはあるけれど、役者が変わるとこんなにも違うのかという今回の体験は強烈だった。なんでだろう?チーム制だったからかな?各キャラクターの違いに加えて作品全体の印象も変わりさらに物語が持つ意味も変わっていた(ように感じた)。あとはオービット/Badmanのふたりが年齢も見た目も全然違う役者だったのは大きいかも。何もかも違うのにどちらもオービットでありBadmanであり、その一方で同じ台詞を言っていても伝わってくるものは違っていてその体感には驚きもあったし演劇の面白さも感じた。
私が演劇を、特に劇場で観劇する演劇を好きな理由は、役者がいまその瞬間に生み出しているものを受け取ることができるから。受け取るものは台詞だけじゃなくて役者の肉体を通して表現されるものだったり役者自身の経験から立ち上がるものだったり。板の上にいる登場人物は演じる役者を通してそこに立ち上がっているから誰が演じるかの意味は大きい。少なくとも私にとっての意味はとても大きい。それを実感した。そして生身の人間たちが互いに生み出していくものが交わるからこそ役者が変わればその空間も変わるしその空間も毎公演変化する。それを肌で受けて自分が何を感じるのかを楽しみに劇場に足を運んでいる。私が何を感じるか、作品が私にどのように侵入するか(あるいはしないか)は作品によってもちろん違っていて、DROPに関しては、観ているあいだにじわじわと侵入されて気付いたら私の深部まできていて観終わったあともそこに居続けるっていう感覚だった。この感覚は私は結構好き。そのなかで今回は“その役者だからこそ“の魅力をたくさん感じてとても楽しかったしおもしろかったし疲れたし侵入されたものから色々なことを考えてそれもまた濃密だった。

 

最後にもうひとつ。舞台セットも好きだった。特に上から吊るされている物体。迷宮を彷徨う者たちの行手を阻むようで触れたら不規則に動いて。これ好き…って思った瞬間は、小説家が書いた迷宮の物語が途切れて小説家が再び目覚めようとする場面でこの物体だけがまだ揺れているのを見たとき。迷宮はもうそこにはないけれど確かにそこにあった気配が残っていて、というか小説家は注意を向けていないだけで迷宮はずっとそこにあったのかもしれなくて、揺れの不気味さもあってぞくぞくした。あの揺れは不規則だと思うから同じ朝を迎えているようで同じではない。最初に見たときにうわあ…って思ったしこれ好き…って思った。感覚的に得体の知れない怖さを感じたしこれから始まることへの恐ろしさもあった。もちろん衣装も照明も音楽も含めて濃厚な世界だった。

 

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千秋楽後に赤澤さんが書かれていた「明日を続けていくなかで」という言葉が胸に響きました。本当にそうだなって。1ヶ月後も1年後も“明日“を続けないと来ない。何もしなくても明日は来るかもしれないけれど、明日を生きる覚悟が必要なときだってある。

毛利さんの「明日の自分と向き合い前に進める作品」という言葉。“過去の自分と向き合う“という表現はよく耳にする。過去の自分と向き合うということはつまり明日の自分と向き合うことでもあるのかなって思った。今日と明日をどう繋げるか。卵をどう扱うか。その答えを見つけるため、明日の自分と向き合うための時間が迷宮で過ごした時間だったのかなと。「自分の姿だけが、ずっと、動き続ける」迷宮。今日の自分が、過去の自分と、明日の自分と向き合うための鏡の迷宮。

 

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“明日“に関してはもともと私自身もよく考えることだから、最後のオービットと小説家のやりとりは色々なことを考えながら観たしそれぞれの言葉が刺さってきた。
演劇としてもすごくおもしろかったし、そこから受け取ったもの私が感じたものには重みがあった。観られてよかった。あの迷宮は私のなかにも存在するものであり、この先も事あるごとに現れる場所だと思っている。