山崎ナオコーラ 『美しい距離』

 

誰もが死に好奇心を抱いている。他人の余命を知りたがる。死にそうになっている人を「かわいそう」と思うことに快感を覚える。

 

この文章を読んだとき,息が苦しくなってしばらく先に進めなかった。思わず本から顔を上げてしまって,呼吸を整えているときになって泣きそうになった。その瞬間,私の中で何が起こったのかはわからないけれども,ひとつ言えることは,私がずっと心に抱いていることだったということ。死について,生きることについて。

 

美しい距離

美しい距離

 

 

また,好きな本に出会ってしまった。

感受性,自分と他人の物語,そして死。

これは独立しうることもかもしれないけれど,ひとつの作品のなかで描かれていて,そこでは「死」を意識せざるを得ないのだけれども,感受性のことも物語のことも日常にあることなわけで。少なくとも私にとっては,感受性も物語も死も,いつも思考に現れるものだから。ああ,私と同じ人がここにもいたよって思いながら読んでいた。

 

「医師から余命を宣告された人だけが死と向かい合っていて、そうではない人は生と向かい合って生きている」。

 

みんな,明日も生きているかどうかなんてわからない。

私だってあなただってあなたの好きな人たちだって,明日死ぬかもしれないよ?生きているのは死なないから。何もしなければ死を迎える人たちがいる。そうじゃない人は,死ぬという選択をしないから生きている。

生には終わりがあって,それはみなに等しい。でもそれは遠い未来のはずだから,行き着く先が死であることは明確でも,そこに至るまでにはたくさんの時間があるから,生の時間があるから,明日もそこに自分の生があると思っている。死を意識して,死に向かって生きている人は特別だと思っている。死期を意識することなく,突然その人生を終える人もいるのに。

病のように迫りくる死もあれば,自ら求める死もある。常に生が脅かされる状況だってある。もちろん他人の死に常に触れながら生活している人もいるわけだけれど。自らの死を意識して生きている人は特別で,「特別だ」と思っているのは,自分の死を意識していない人たちで,そういう人たちは自分たちとは「違う側」だと境界線を引いているのかもしれない。

 

そして,境界の向こう側にいる人たちを,自分が描く「物語」に当てはめようとするんだ。こういう状況にある人はきっとこう思っているのでしょう。こういうふうに苦しんでいるのでしょう。こういうことを求めているのでしょう。この先はこうなるのでしょう。これは私とは関係のない特別な話。でもわかるわよ,あなたの気持ち。

反吐が出る!

物語。これは死を意識しているかどうかに関わらず,あらゆる場面にあることで,いろんなことに対して日々思っていることなのだけれど。どうして自分の物語を他人に当てはめようとするのだろう?どうしてみな同じ物語を生きていると思うのだろう?それを紡ぐ人が違うのなら,物語だって同じものなどふたつとないはずなのに。自分の物語を参考に相手の物語を考えて,想像することはある。でもそれは,始めから自分の物語に当てはめてしまうことは違う。相手の物語は自分の物語とは違うけれど,まったくのゼロからでは想像がつかないから,自分の物語とか,これまで見知っている誰か他の物語を参考に考えてみて,実際に,相手と関わるなかで,それを修正していきながらその人の物語を理解していけばいいわけで。ただ,相手の物語を「知る」ことは出来ても,「受容」できるかどうかはまた別問題。だって私はあなたではないから。あなたが感じていることをたとえば言葉のような表現を介して知ることはできても,あなたが感じているその「感覚」を私の心身で感じることはできない。それは,あなたに成り代わらないことにはできないことで,あなたに成り代わったとしてもそれまでの「自分の」経験がある限り,「自分の」思考がある限り,それは「自分の」物語の出来事でしかないから。

 

こちらの感受性の問題だろうか?

 

私の物語は私だけのもので,相手が自分と同じように思っているとは限らない。あることに関しては「私たち,同じだね」ってなることもあるだろうけれど,すべての場面で相手とまったく同じということはない。自分がいたら話しにくいだろう,だからさりげなく席を外す。本当は言いたいけれど,自分が言うことで相手は嫌な思いをするかもしれない。どうやったらうまく伝えられるだろう。こんな言い方をしたらこう思われてしまうだろう。あの人は自分の物語に勝手に自分たちを当てはめてああだこうだ言ってきた。さぞかし妻も嫌な思いをしただろう。そう思っていたのに,妻はいい人だったと言った。こちら側の感受性の問題か。

相手の物語を意識するあまりに自分の身動きが取れない。こういう行動をとったら相手は嫌な気持ちになるかもしれない,というのは,結局,自分の物語に沿っているのかもしれないけれど,「かもしれない」と「(当然)そうだ」は違うと思うから。でもいくら自分が相手のことを考えて行動したとしても,やっぱりその行動をどう受け止めるかは相手次第なわけだから,そこには関与できない。慮ってやったことが拒否されたり,やらなければよかったと思っていたことに喜ばれたり。夫は「妻のために」考えていたこともあったけれど,義母の手前言い出せなくて,でも,こっちの方が妻も喜ぶんじゃないかと物語を修正する。それでも,これはやりたいと伝えたこともあって,私はそれがすごくいいなって思った。あれだけ気を回して先読みして思っていることのほんの少ししか言葉にしていない夫が,やりたいと思ったこと。

物語のほとんどが夫の思考なわけだけれども,私に置き換えてみても,日常のなかでは自分のなかだけで考えていることが大半で,言葉にして誰かに伝えるのはそのうちのごくごくわずかだなって今更思ったり。

色んなことを思っているけれど,そのなかで自分が選んだことだけを外に出す。ときには意図しない言動もあるかもしれないけれど。どうせ受け取る側の感受性の問題なのだから!と振る舞うこともできるかもしれないけれど,でも,やっぱり相手には相手の物語があるから。そして,物語は死を意識している人の前だけに立ち上がるものではない。物語は自分と他人の物語を意識している人の前に立ち上がる。そして,それぞれの物語がある限り,生と死の意味もそれぞれ違うんだ。死を意識して「生きて」いる人。死は自分の物語にはない人。他人の死を意識して生きている人。誰かの死を抱えて生きている人。死を求めて生きている人。死に抗って生きている人。でもみんな,死に向かって生きている。そして,死ぬまではみんな「生きて」いる。「医師から余命を宣告された人だけが死と向かい合っていて、そうではない人は生と向かい合って生きている」なんてのは,それこそ勝手な物語で,その人が生死とどんなふうに向かい合っているかなんて他人が決めることじゃない。でも,その人がどんなふうに見えるのかは感受性の問題かもしれない。けれども,感受性の問題ならばそれは受け取る側に委ねられてしまうから,受け取ったもの=相手の物語にはなり得ないんだ。

みんな死に向かっているし,でもまだ死んでいないのなら,それは生きているってことでしょう?けれども死ぬのは明日かもしれないよ?

 

 

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色々なことを自分と重ね合わせながら読み進めて,穏やかで静かだけれど凛とした「生」がそこにあって,最後には涙がぼろぼろと零れていった。妻との「美しい距離」。それは,生と死,感受性に想いを巡らし,そして妻の物語を大切に大切にしようとした夫だったからこそ感じられたものだったのかもしれない。「美しい」と思えたのは夫の感受性。でも,私も美しいと思った。けれどもこれは夫の物語。その物語に触れた私は「美しい距離」だなと感じた。

 

 

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感受性,最近,他の本でも読んだなって思ったら,住野よるさんの『君の膵臓をたべたい』だった。

言葉は往々にして、発信した方ではなく、受信した方の感受性に意味の全てがゆだねられている。