炎立つ @兵庫県立芸術文化センター 2014/9

私の知っている三宅健はそこにはいませんでした。健くんだとわかっているのだけれど健くんではなくて,そこにいたのはアラハバキに魂を預け獣となったイエヒラだった。

 

冒頭,登場人物が立ち並ぶシーンで,イエヒラが視線だけをゆっくりと動かしていてあの表情すごくいいなあと思った。そして声。イエヒラの第一声を聞いたときは多少なりとも驚きがあったのだけど,話が進むにつれてあの声こそイエヒラだと思うようになり,観終わった今となってはあの声が懐かしい。獣となった後には声も変わった。イエヒラの声は遠くからでも憎しみや苛立ちをのせたままずっしりと響いてくる。何人もいる登場人物の中でイエヒラの声はざらつきがあって,収まりきらない,抑えきれない感情に満ちながら終始際立っていた。あれは声の出し方以前に,健くんだからこそ出せた声なんだと思うと感慨深い。

 

 

原作を全巻読んでの観劇だったから,保有知識と照らし合わせながら。説明的な台詞が結構あって,イシマルだけかなと思っていたら他の人物もあちこちで語っていた。でもイエヒラにはなかった。イエヒラの言葉はすべて感情の吐露だった。

主人公はキヨヒラだけれど,原作ではその前に三巻もあり,キヨヒラが運命の子となるまでに数々の戦があり命を懸けたやりとりがあり,その部分を胸を熱くしながら読んでいた身としては全体の印象も異なっていた。無邪気に兄を慕っていた頃の家衡とか,経清と認め合っていた若き義家とか。

でも原作はあっても小説と舞台は別の作品だと思っているし,今回はテーマも異なっているし,そもそも名前の表記や衣装から,あの時代であってそうではないという描き方だからどちらがどうというわけではない。ただ,言葉でたくさんの背景や歴史や事情を伝えていたその内容は,何の事前知識を持たずに観劇にしている人にとってはどのように受け止められていたのかちょっと気になる。私の場合は,映画にしても舞台にしても原作があるなら先に読んで,どう別の形で表現したかを感じることも楽しみにしているのだけれど,既有知識で補完したり照らし合わせたりしてしまうことで純粋に受け止めることができないという意味では良し悪しだなとも思う。特に今回のように,原作の一部分を取り上げ新たなテーマのもとで構成している場合は。

 

平泉という土地を,民を守り抜いてきた蝦夷の誇りは原作全篇を通して強く感じられたけれど,国は民の心の中に,というのは楽土を成就させた清衡ではなく,先祖によって興された国に生まれ育って棟梁となり,蝦夷の誇りを貫いた泰衡の覚悟として心に残っていたから,ここではキヨヒラが語るのだなと。けれども,人質として敵方で暮らし木偶の坊と呼ばれてもひたすら沈黙を守り,弟との戦を避けようとしながら,それでも最後には楽土のため鬼となることを決意したキヨヒラの葛藤,覚悟,そして願い。腹を裂いて検分した兵にツネキヨの亡霊を見たヨシイエもそうだけど,自分が怯えるものに囚われ,逃れようと喚き悶えるそれぞれの演技は凄まじかった。

ここに生きた人達はみな,何かに囚われ迷い必死にもがいている。それはイエヒラも。

 

イエヒラの最期,紡ぎだされる言葉,言葉を絞り出す瞬間,空白の時間,息をするのも憚れるほどで観ているこちらも苦しかった。なぜ戦っているのか,なぜ生きたのか,自分は何だったのか。背後にはアラハバキ,そしてまわりにはコロスやカサラもいた(と思う)けれど,そこに立っているのはイエヒラだけで,その絞り出すような叫びが痛かった。「俺は何だったんだ」というイエヒラの言葉が突き刺さっている。

キヨヒラには家族も命を投げ打って戦に臨む兵達もいたけれど,イエヒラには誰もいなかった。だからこその母親の存在。

観ているときはイエヒラのその姿にただただ引き込まれるだけだったのだけど,今あの最期を思い出すと胸がいっぱいになる。観劇中には起こらなかった感情が後から湧いてくるという不思議な感覚。思い起こせば起こすほど,とてつもないシーンだったんだなと,それくらいに焼き付いている。そしてそれを演じていたのが健くんだったということを思い出すとぞわっとする。

あの中で,そうそうたる出演者の中で,その瞬間ひとりで観客の視線を受けて舞台に立っている健くんの姿に感動した。

 

 

あと健くんの身体能力ね!あまりにも自然にやってるからそのまま見逃しそうになるけど,すごいよね,すごいよね!側転二回に,後半すごい勢いで転がってたよね,しかもかなりの距離。なのに全然身体ぶれてなくてすごかった。あと身体を後ろに反らしているとき,かなり後ろまでいってたよね,あれもすごいと思った。最期の倒れ方もゆっくりと倒れていって,そうは見せないけれど全身の筋肉使ってるんだろうなって。あと雑兵の格好をしているときの腕もたまらない。あ,あとあとユウを軽々と抱えていくところ。ちょっと体勢立て直していたようにも見えたけど,身軽なだけじゃない。

 

生演奏だからこその迫力というか地を這うおどろおどろしさ。あと音楽という意味では,カサラの新妻さんが本当にすごくて。コロスの重なり合う声と突き抜けるカサラの声。布を使った演出が好きだなあと思った。流れていく赤い血,地面を覆う白い雪。赤黒く染まり破れた布。アラハバキの戒め。アラハバキの真っ赤な舌。真っ赤に燃える大きな太陽。何万という兵が描かれる中,4人のコロスでそれを描くその迫力は舞台だからこそ出来るし舞台だからこそ感じることができるものなんだろうなと。そしてそこに音楽が加わるからこそ。杭を打つ重々しい音の響きで始まり終わる。

キヨヒラのために命を絶つユウとキリ。ユウが自害したと高らかに言うユウの声に胸が締め付けられた。清衡という名の由来が,この地を清め衡らかにする,とされていたけれど,叔父と父の名から取ったのではなくて少し残念。衡らかにするというのは建前に過ぎず,武貞に名を改めさせた上で楽土の成就を清衡の名に込めたという経緯が原作では心震えただけに。登場人物を限定しているからそんなこと言い出したらきりがないけれど。

 

 


 

 

カーテンコールのときも健くんはイエヒラのままで,でも愛之助さんが「岩手でお会いしましょう」と言ったときに一瞬笑顔になって,健くんだ…!となりました。あと毎回思うことだけれど,健くんのお辞儀の仕方が本当に好きです。手を前に添えて深くお辞儀をする。健くんだなあって思う。

V6の三宅健だと気付かなかった,と言われるのもほんと頷ける。実際に,愛之助さんの出演を理由に観劇された方のそういった感想を見てとても嬉しかった。

そこにいたのは三宅健じゃなくてイエヒラで。三宅健が見えたのは挨拶時の一瞬だけ。その後はけるときも背筋を伸ばしたイエヒラのまま歩いて行ったから。SomeGirl(s)のときは,三宅健のようでありながらそこにいたのは"男"だった,という感覚だけれど,今回は初めから三宅健は見えなくて,それは衣装や髪型,声だけじゃない。だからそういう健くんを観ることが出来て本当に良かったなと。

 

パンフレットのね,イエヒラとしての表情がとても好き。黒髪!手を口に当ててるショットがとても好きなのだけど,あれは自分でやったのかな。個人ページの見開きで映っているカット。立ち方も含めて,凛々しさの中に哀しさもあってああいう健くんの表情がとても好きです。目にした瞬間はかっこよさに見惚れてしまうのだけれど。いや,ほんとかっこいいでしょ!めちゃくちゃかっこいい。なのに愛之助さんとの兄弟対談では可愛さしかなくてどうなってるの!って言いたくなる。髪,茶色になってるし。対談の1ページ目,愛之助さんと並んでいる写真の健くんの表情,あまり見たことのないもので新鮮。緊張してるような。

私,健くんの腕もだけど,骨ばった顔とかそれだけ見るとすごく精悍で好きなのだけど,そういう印象を隠してなお余りある可愛さは何なのだろうね!だから,短髪黒髪とか,舞台上の出で立ちだと余計に普段のイメージからかけ離れて,ああ,もともとこういう顔立ちだったよねってなる。とにかくかっこいい。手話も1回だけだけど,黒髪にしてたよね。

最近は求められているからなのか,まわりの反応を見越してなのかますます年齢不詳の可愛さを振り撒いているけれど,だからこそそうじゃない表情を見るとはっとする。そしてそういうどこか陰のある表情がとても好き。可愛い健くんも好きだけれど,こういう表情を,凛々しさを知っているからこそ好きなんだろうなと思う。意味がわからない文章になりました。

 

 


 

 

キヨヒラが始めと終わりに「復興」という言葉を使っていたけれど,何となく違和感を覚えた。その言葉がどうとかではなくて,近年現実の身の回りでよく耳にするからかな。時空の歪みというか交絡というか。

原作を思い起こしながら観ていたのもあるかもしれないけれど,全体的に入り込めないままだった。というか自分の中で落とし込めずに上滑りしている台詞が結構あって。原作に対して自分が持っている印象とここで掲げられているテーマの違いは置いておくとして,でもあまりそういったテーマは感じなかったような気もする。うーん,私にはあまりはまらなかったということです。

自然と言いながら神としてのアラハバキが意志を持っているしどちらかというと災いもたらしてるし。神がそういう存在なのは理解できるけれど,平泉が滅んでしまったのは百年間は大人しくしていたアラハバキが暴れたからなのですか!と言いたくなる。完結した物語というよりは,葛藤を,迷いを,苦しみを投げかけられて終わったのかなと。

 

話そのものに入り込むことはなかったけれど,それぞれの場面や登場人物の表情,声に惹きつけられたところはたくさんあった。楽土を実現するために多くのものを失い,葛藤し,戦は終わっても苦しむキヨヒラを演じる愛之助さんはすごかった。何より声の表情がすごかった。愛之助さんのお芝居を観たのは初めてだったけれど,愛之助さんは愛之助さんだった。

 

イエヒラがアラハバキの名を口にするとき,「アラ,ハバキ」って少し区切って言っていたのが気になった。そうはいっても,だからこそイエヒラが言う「アラハバキ」には荒々しさがあって耳に残っている。いまだにたった一度だけ観た鉈切り丸での範頼が「なぁ鳶…」と呼びかける声はあのときの質感のまますぐに蘇るのだけれど,同じようにイエヒラの「俺は…何だったんだ」と絞り出した声,身体を震わせる最期のとき,そして「アラハバキ」と呼ぶときの荒々しさはそのまま記憶されている。

 

あと,新妻さん自身も好きな台詞として挙げておられたけれど,「平和とは戦と戦の束の間の楽土のこと」という言葉も重みと共に残っている。

 

 

壮絶なイエヒラを目にして帰ってきてからその日のほっとけない魔女たちを見たら可愛いマモルくんしかいなくて混乱しました。これ本当に中の人同じかな,どうなってるのかな。実際にイエヒラを見ると,昼公演した後のMステで(思いっきり官兵衛だだ漏らしている人もいる中)イエヒラの余韻など微塵も感じさせず,アイドル三宅健としてきゅるきゅるしてたのが恐ろしくもなる。ほんと何なのだろうね!

 

 


 

 

私にとっては最初で最後の炎立つだから,この日観たものが私にとってのすべて。

舞台はその日その場所で生まれるものだから同じものは二回とない。演者もその瞬間,新たな経験を加えながら生きているから,同じ状態で舞台に立つこともない。

だからこそ同じ舞台でもどんどん変化していくのだろうし,それを自分の目で観ることが出来るのはドラマや映画とは異なる魅力だし,ライブもそうだなって思う。その場にいる自分も同じではいられないから。

けれども,だからといってそういう変化を前提に観るわけじゃない。客席に座ったらその一回がその舞台のすべてになるわけだから。だから内容そのものに対しても,観劇回数を重ねることで何かを捉えられるようになる,というのはちょっと悔しいなって思う。それは余韻とか,余韻に浸りながら何かが自分の中で形成される,というのとも違う意味で。

なぜそんなことを思ったかというと,私にとっては今回の観劇がすべてだったけれど,捉えきれないところとか台詞があまり入ってこないところとかがあったから。それが回数を重ねることで変化したのかどうかはわからないけれど,単純にもっとあの世界を感じたかったなと。

でもこの炎立つが,岩手で,蝦夷の地で幕を降ろすというのはとても素敵なことだなと思う。私もいつか蝦夷が誇りとした地に立ってみたい。