映画『たかが世界の終わり』

 

美しい映像と音楽,そして美しい人たち。 

冒頭の薄暗い機内でのモノローグに何だか泣きそうになって,その後流れてきた歌にもっと泣きそうになった。

 

"Home is not a harbour"

 

それは,すでに私の中にあったものだった。それでも心を揺さぶるメロディと言葉。

 

 

 

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半年近くも経ってどうしていまさら,って自分でも思うけれど,今度観る予定の映画が,観たあとしばらく引きずり込まれたままになりそうな気がするから,その前に言葉にしておこうと思って。鑑賞後すぐに色々なものを書き殴ってはいるから,それを整理するかたちで残しておく。

 

 

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冒頭の歌を聴きながら,ああ,これから私はこの映画を観るんだって思った。こういう映画なんだって。映画のテーマみたいなものは知っていたけれど,ああ,これがこの映画なんだって。"Home is not a harbour" うん,そうだよねって思った。それは自身の経験からくる肯定なのか,知識として,理屈としての肯定なのかははっきりしないけれど,それは自分の中にすでにあるひとつの回答だったからか,そのままその言葉を肯定していた。タクシーのドアを閉めるとともに断ち切られる音楽。それまでに,もう,映像の美しさに目が奪われていた。並べられる色鮮やかな料理,その配置,増えていく皿,上から見たテーブル。あの美しさはいまも鮮やかに蘇る。

 

映像が,ずっと美しかった。絨毯に横たわった鳥の毛が陽射しを反射して微かに上下しているところまで。ああ,って思った。ああ,って思ったら,また,歌が流れ始めた。これで終わりなのかな,もしかして終わりか,終わりなんだってわかるまでに少し時間がかかった。もしかしたら,ずっと息を詰めていたのかもしれない。家の中はオレンジ色に染まっていて,でも窓の外はそんな色がなくてただただ明るい日中だった。

 

私はどういう位置からこの映画を観ていたのだろう。どこか傍観者として観ていた気もする。誰かの中に入りこんで,同じように心をかき乱したり怒ったり居心地悪くなったり躊躇ったり,そういう感情の揺れはなかった。ただただそこにあるものを,しっかりと目に焼き付けていたような気がする。なんというか,それぞれの家族の,たった5人しかいない家族の,もちろんルイも含めて,それぞれの心情を察する,なんてことはしなかった。何となく,するべきかな,みたいな義務感にかられてしようと試みたりもしたけれど,あと,その家族の背景にあるものを察しようとしてみたりとか。でも,なんだかそれが虚しくて,空回りしているような気がして,あまりしなかった。

私はある家族の食事を眺めている傍観者でしかなかったけれど,冒頭のモノローグとあの歌詞で提示されていたものは,すでに私の中にあったものだった。

 

家族で過ごす,たった数時間の話。その時間軸には家族しか,5人しか登場しない。窓越しに見た跳びはねる子ども。冒頭の機内の子ども。家族とは踏み込めないものがあるルイが,ただただ純粋に他人と触れ合うのが,あの冒頭の子どもだけだったのかもしれないと後から気付く。あんなふうに柔らかい笑顔を見せたのはあの場面だけだったかもしれない。 

あの鳥は,あの鳥に自分を見たのだろうか。微かに上下する胸,そしてもう間もなく終えるだろうその命。それとも,壁にぶつかりながら惑うように飛んでいた姿に? 思い返せば,ルイの気持ちが言葉ではっきりと示されているのって,機内のモノローグと電話相手に対するものだけで,そのあとは,他の家族も含めて,「誰か」に対する言葉でしかない。もちろん,電話相手に対してもそうだけど,家族に対するものよりはもっと素直な心情だったと思う。だから,私たちは表情とか仕草からなんとなく察するしかないのだけれど,実はそれが普通で。ルイが主人公かもしれないけれど,私たちは完全にはルイの目線に立つことは叶わない。相手が変われば紡ぐ言葉も変わる。娘に対して,兄に対して。長男に対して,次男に対して。

 

1日経ってエンディングのMobyを聴いて,何かがぐわっと込み上げてきて涙が滲んてきた。あのやりきれなさ。ルイの諦めのようなもの。

 

"It's just a family meal, not the end of world"

 

そうだ,ただの家族との食事。世界の終わりじゃない。英訳のタイトルは「It's Only the End of World」,邦訳は「たかが世界の終わり」。元になった戯曲の邦訳には「まさに世界の終わり」ってあった。世界の終わり。誰の世界だろう? 私はこの映画を観て何を思ったのだろう?

 

決定的な事件とか深刻な問題がなくても,そんなのあろうがなかろうが,上手くいかないものはあるわけで。私以外の人はみんな私とは異なる他人で,同じ感覚をなぞることはできなくて,互いに相容れないものを語り合うこともできるけれど,出来ないこともあるし,そうしたくないことだってある。家族だからといって,血を分け合っているからといって,何かを共有して理解できる,誰よりも分かり合えるなんてものは違うというのは,すでに私の中にあるもので。

ルイの,あの,本当に思っていることを言葉に出さない,むしろ呑み込んでしまって結局口数少なくなるあの姿は,私と重なるんじゃないかなって。ぼんやりとそんなことを思っていた。それは,どうせ伝わらないから,素直に言ったところで,やれ嘘つきだ,自分を丸め込もうとしてそんなことを言ってるんだってアントワーヌのように受け止められたりすることが理由ではないけれど。休息を得る港。私にとっての家って。安らぐって何だろう。 そんなことを頭によぎらせながら観ていたから,ひりひりとした感情になるとかえぐられる,とかそういった鮮明な感情を抱くことはなかったのだけれど,なんというか,そこには入りきらずにただただ傍観者として眺めていたのだけれど。

 

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とても美しい映画だった。色彩が,とても美しかった。そして,それはある種の”生々しさ”ゆえの美しさかもしれない。人々の表情。視線。目。汗。口元。どれもが美しかった。会話だけがその人の心情じゃない。それぞれの心情を考察するなんてことは,私の中にはなくて,これはこの映画に限ったことじゃないかもしれないけれど,何も考えずに,あの音楽と色彩と断片的な会話と映像の余韻に浸っているだけだった。でもそれで充分な気もする。そして,そういう映画が,結局私は好きなのだろうなと。一生懸命にストーリーを追いかける映画ももちろん嫌いじゃないけれど,ただただそこに写される映像を目に入れて流れる音楽を耳に入れる。言葉にできない何かを感じる,動いた自分の感情を知覚する。それが何というか心地よくもあって。じゃあ,それはストーリーとは関係のないことなのかと言われたら返答に困るけれども,でもやっぱり,この映画で描かれていたことに何も思わなかったと言えばそうでもなくて。そのかたちが私の経験したものではなかっただけで。でも部分的には身に覚えのあるもので。

なぜ,映画を観るのだろう。小説との違いは何だろう。って映画を観たあと何度も思っていた。でも,あの色彩と,そして音楽は映画じゃなきゃあの感情は経験できない。何となく翳りのある室内と目に痛いほど明るい屋外。料理の色彩。家族の服装や化粧の鮮烈さ。情事のあのまとわりつくような色彩。そして音楽。 何かを考察することは,それは無理やり観た理由を,観て何かを得たという実感を獲得しようとするようなものに思えるから,しない。ただただ感じたことを残しておけばいい。断片的でも頭に残った言葉とか,映像とか,観終えたあとの余韻とか。そういう,言葉には出来ないけれど何かを動かされるような,何かに触れるような,そして何かが突き上げてきて泣きそうになるような,そんな映画だった。