きらきら

“永久未来続くものなどあるはずはないから これで行くさ僕は僕を壊してく”

2017年の5作品

 

昨年まではその年に読んだ本から選んでいたけれど,今年は選ぶほど本を読まなかったので映画,演劇も含めて。

 

 

1. 映画『たかが世界の終わり』


 


It's Only the End of the World Trailer | Festival 2016

 

"Home is not a harbour"

美しい映像と音楽,そして美しい人たち。冒頭のモノローグに泣きそうになって,その後流れてきた歌のこの歌詞にもっと泣きそうになった。身体の奥深くに鈍い余韻を残す映画。思いの丈は別エントリーに。

とても美しい映画だった。色彩が,とても美しかった。そして,それはある種の”生々しさ”ゆえの美しさかもしれない。人々の表情。視線。目。汗。口元。どれもが美しかった。会話だけがその人の心情じゃない。それぞれの心情を考察するなんてことは,私の中にはなくて,これはこの映画に限ったことじゃないかもしれないけれど,何も考えずに,あの音楽と色彩と断片的な会話と映像の余韻に浸っているだけだった。でもそれで充分な気もする。そして,そういう映画が,結局私は好きなのだろうなと。

日本の予告動画は好きじゃないので貼らなかった。映画鑑賞後,狂ったように使われていた歌を聴いていました。 

たかが世界の終わり|映画作品 Blu-ray&DVD情報 | ポニーキャニオン

 

 

2. 映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』


 


映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』予告編

 

ドキュメンタリー。自分でも記憶が曖昧だけれど,HozierのTake Me to Churchの先のMVを始めに知ったのだっけ。映画を観る前からポルーニンが踊ったMVをこれまた狂ったように観て聴いていたけれど,映画のなかで観たその踊りは,ポルーニンが生きてきた一部を追いかけてきた上で目にしたそれは,いままでとは比べ物にならないくらいに迫ってくるものだった。声にならない震えが湧き上がってきて,涙が流れた。あの,音楽を搔き抱いて舞う身体。

 

劇場同時オンデマンド配信がされているらしい。

映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』公式サイト

 

 

3. 演劇『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ SPECIAL SHOW』


ジョン・キャメロン・ミッチェルのヘドウィグが観られるなら何がなんでも私は観に行かねばならないと思った。結果的に「SPECIAL SHOW」だったわけでミュージカルとしてのヘドウィグが観られたわけではなかったけれど,映画を観た当時狂ったように聴いていた音楽は身体に染み付いていて(好きになった曲はだいたい狂ったように聴いている),理由のない切ない懐かしさを感じながら興奮しました。Midnight Radioはイツハクのシーンがよみがえって胸が熱くなる。

新しいものに触れたとき,作品でも人でも物でも何でもだけれど,「感情が動いた」と感じることはたくさんあっても「自分の何かが変わった」と”その時に”自覚することって多くはなくて。でも,この映画は観終えて「変わった」と自覚した作品だったし,いくつかあるそういう経験のなかでも早い時期だった。私は「死ぬまでにこれをしたい」ということがほとんどなくて,でも「ジョン・キャメロン・ミッチェルのヘドウィグのミュージカルを観る」というのはそこに入るかなって割と考えていたから,たとえミュージカルではなかったとしても,私のなかに存在しているこの作品を,音楽を体感することができたのはすごく嬉しかった。

「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」SPECIAL SHOWオフィシャルホームページ

 

 

4. 演劇『ナイロン100℃ 44th SESSION ちょっと、まってください』


芝居、台詞、映像、音楽をひたすら浴びて大興奮!視覚聴覚だけじゃなくて嗅覚味覚触覚ぜんぶ揺さぶられ続けた感じ。おまけに声を出してめちゃくちゃ笑った。その合間にもあ!って思うことあるのに思考が追いつかず,でもちゃんと自分の中には刻まれていて観劇後にじわじわ考える。自分でもいままでに考えたこと,いま考えていることばかりで、それがこんな風に表現されるんだなっていう嬉しさと新鮮さ。

私たちがいかに思い込みだけでコミュニケーションをしていることか!!!

世界はこんなにも脆くて危なっかしい。

ナイロン100℃

 

 

5. 書籍『ヤノマミ』


ヤノマミ

ヤノマミ

 

ただただ読んでほしい。

ヤノマミ。「アマゾン最深部で独自の文化と風習を1万年以上守り続ける民族」。ヤノマミとの同居生活を綴ったルポルタージュ

もう終わりに近い2章分ぐらいでものすごく苦しくなった。それまでは,著者たちと同じような目線で,私の知らない原住民ヤノマミ族の生活,伝統,世界との関わり方,そんなものを驚きと新鮮さをもって読み進めていたのに。”ヤノマミ側”からみた文明との接触(それは多くの場合,侵略である)はひりひりとするものだった。それまでは,「私とは異なる文化に属する人たち」というある意味傍観者的に眺めていたその人たちの生活が,自分にとっては日常にある文明と接触していて,つまり繋がったものであって,なのに,その文明によって,ほんのりと親近感さえ覚え始めていた彼らが何かを脅かされているようで,彼らの伝統を脅かしている文明に腹を立ててさえいる自分に呆気にとられた。服だって携帯だって医療だって,私の生活にとっては当たり前のものでしょう?何に憤っているのだろう。ヤノマミの伝統が失われようとしていること?彼らは自らの文化を持っているのに!そう憤っている私は一体どういう立場なのだろう。急激な文明の流入。何世紀も飛び込した文化との接触。

あるCMを思い出した。アフリカの子どもたちにPCを届ける,映像を見せる,たぶんサッカーだったかな,子供たちは興奮する,その素晴らしさを訴えるような「ITは国境を越える」。でもそれってどうなんだろうって。それまでになかった疑問を強く抱いた。それって果たして良いことなのだろうか。新しい物事を知るということはいかなるときもよいことなのだろうか。それは結局,文明側にいると思っている者の奢りなんじゃないかって。ヤノマミの生活を無視して森を開発しようとする者がいる。それを防ぐために国が保護対象とする。そして保護するからには見守る。支援をする(支援って何だろう)。単なる「カルチャーショック」では終わらない,なんだか怖い感情すら抱えてしまう本だった。アハフー。暗闇のなかで響くヤノマミの人々が笑う声。

 

 

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今年は直接すすめてもらったり,他の方の感想をみて足を運ぶ作品が多かった。そしてその作品が自分の好きなものだったからすごく嬉しかった。自分だけでは出逢わなかったかもしれないわけだから。そういう出逢いってとてもいいなって。まったく違う方向からそれぞれおすすめされて驚いた映画もあれば,軽率にチケット取った演劇もあって普段はそんなことしないあまりの軽率さに自分でもおかしかった。

今年の始めはいまままでずっと考えてきたことをそれなりに丁寧に言葉にしていた期間があったけれど,そのあとは小説を読まなかったということもあってびっくりするくらい何も考えずに生活をしていたことに暮れになってから気付いてびっくりした。何も考えないって楽なんだなあって,久しぶりに考える=言語化しようとして軽い眩暈を覚えながら思いました。