凍りのくじら

 

凍りのくじら (講談社ノベルス)

凍りのくじら (講談社ノベルス)

 

 

私は、何だろう

“Sukoshi・Futoumei (少し・不透明)”

 

主人公の Sukoshi・Fuzai (少し・不在) も私には有り得るのだと思う

常に人を見定めている、そして自分をも

自分の思考を、感情を、理詰めで考える

そして自分で結論を出す

そこに他人が入る余地はない

 

冷めている立ち方、他人とは違うという線引き、だから人を信用しない、頼らない

私の場合は他人に見せないようにしている、自分の手の内を、本音を、思考を

だから、Sukoshi・Futoumei (少し・不透明)

 

まわりからはよく見えない

でも不透明にしていると思っているのは自分だけで本当は丸分かりなのかもしれない

たとえそうだったとしても、私は不透明のつもりでいる

 

読みながら声をあげて泣いてしまった

郁也との関係に泣いた

うまく言えないけれども子どもなりの必死さに泣いたのかもしれない

もちろんそれだけではないのだけど

 

なんだろう、自分は強いと思っていた主人公の脆さが露呈して崩れそうになったときにはじめて気付いたまわりの存在に胸を打たれたのだろうか

スコシ・ナントカで見ていた他人、それはある意味、自分のフィルターを通して見ていたもの

実際の姿とは関係なく自分が見ていたものがすべてではない、それが正しいとは限らない

そんなスコシ・ナントカにおさまらないその人の姿に迫るものがあったのかもしれない

あの人はこういう人だ、そう思ってしまうと、自分の中ではその人はひとつの部屋に閉じ込められてしまう

いつも何をしてもその人はその部屋にいる

私はいつも同じ窓越しにその人を見る

その部屋に合うように、合うような飾り付けを増やしていく

部屋の模様替えは易しくはない

 

人の内面をすごく丁寧に描き出している本が好き

綺麗事ではないものが好き、嫌なところがあるほど

誰だって、口には出さないけれども結構ひどいことを考えているんじゃないかと思う

少なくとも私は

だから、そういう登場人物には自分を照らし合わせる

自分の嫌なところを内側から取り出して眺めている気分になる

それを直そうとか改善しようとかそういうことではなく、ただ、自分の中にあるものを取り出して眺めるだけ、そして読み終えるとまたそれをしまい込む

 

もしかしたら少しだけそれは形を変えているかもしれない