Sukoshi・Futoumei (少し・不透明)
傍から見れば私はそう見えるかもしれない
少なくとも、私は不透明に見せているつもり
そう、他人から見てどうかというよりも私がそのように見せている、意図的に
だから、Sukoshi・Futoumei
今の私って何だろう、やりたいことだけをやっているだけでやることは他人から与えられているもの、もしくはやらなければならないもの
じゃあ、その先に何があるのだろう
私の先には今、何もない
何もないことが当たり前なんだろうけど、未来だから
でもそこに私が何も見ていないことが問題なのかもしれない
口先だけで、本当に私が見ているものは何も、ない
言葉だけで何も見えていない、というか、見ていない、見るものがない
最近、私の行く先は決まっているはずなのに、というか決めているはずなのに
本当にそれでいいのかわからない、そこに辿りつけるかどうかもわからないし何をどうすればいいのかわからない、はっきり言って、そこに魅力を感じない
本当にやりたいことであればそれまでの苦しさなんて何てことはない、あるいは辛くても耐えて頑張ることができる
そんな風に思うことができない
その先にある確かなものがない今の私には
ねえ、その先に何があるの?
いつも私は私に問いかけられる
その先に私がときめくものがあるの?努力して頑張ろうと思えるものが待っているの?私が今立っている道は、どこに繋がっているの?
そんなことを言うと道は自分で作るものだとか言われそうだけれども、そんな至極真っ当な理想論とか美化された教訓なんていらない
私は不安定なんだ
めまぐるしく生活しながら目の前のことをただこなすだけで、その先にあるものなんて考える余裕もない状態と、やることはほどほどにあって先のことを考える時間だけはたくさんあってそこに何も見出すことのできない状態と、どちらがいいのだろう、なんてことを言うつもりはないけれども、それは一緒なのだろうか、まったく違うものなのだろうか
というか、どんな形であれ、大きな何かに続いている(であろう)道に意図してかしないでか置かれているような、そんな状況に立つことすら、私はまだ出来ていないんだ、たった一度も
そのことに不安を覚えているのかもしれない
そしてその思考回路だけを自分でとやかく分析している、それが私の癖
“自分オタク”
FOOL'S MATEのインタビュー記事を読んでこれは自分のことだと思った
自分の事をわかった振りすることができなくて“中身ボロボロ”が許せない
そこをいつまでたっても突き詰めて考える
何か新しい壁にぶち当たるたびに、もっといえばそんなことがなくても、常に
いつも何かに悩んで自分を悔いて怒りを覚えて“自分は”って考えてる
日々を楽しく過ごすコツは身につけている
どうすれば楽しく過ごせるか、どうやれば人とうまく関係を保てるか
そういうことは器用に出来てしまう
けれども内側では自分のことを常に問い詰めていて、そうすればするほど自分の嫌なところを考える
まあ、いいところは考える対象にそもそもならないけれども
そういう内側の暗い部分は決して人には見せない、というか見せ方がわからない
だから、不透明
完全に透き通っている人なんていないことはわかっている
見えないだけでみな、何かを抱えて生きている
けれども私の場合、時に輝くものさえ不透明な内側に隠している
明るいものも暗いものも不透明な壁に遮られて見えない、見えないようにしている
そしてそれは相手によって変化する、不透明の度合いが変わる
この人は大丈夫だと思ったら自分が感じたこと、考えたことを話せるけれど、そうでなければ表面上の差しさわりのない会話だけ
自分が何をどう捉え、何を感じ、そこから何を考えたのか、そういったことを話せる相手はごくわずか、話せる人はいても程度は相手によりけり、本当に感性の部分まで話せるのは数人、あとの人には、不透明
だから私は何を考えているのかわからない、わからないうちに勝手に行動してしまうから相手は戸惑う
私のことはわからない、時には、親でさえも
だって私がそういうふうにしているから、不透明にしているから
自分の中身が見えているとその先を予想されてしまう、そして相手の予想を違った結果になったときが怖いのだと、そう思う
勝手に予想されて期待されてそうはならないときが
だったら始めから見えなくすればいい、知らないところで水面下で動けば問題ない、勝手に憶測されることもないのだから
そんな理屈
だから、その途中で何かを頼ることができないんだ
その過程を見せていないから
見せていればいつでも飛び込んでいける
でも見せていないから、その状況説明からしなければならず、それを面倒だと思う自分がいる
そうして本当に行き詰ってから、どうしようもなくなってから誰かを探すんだ、誰かを
そんな都合の良い話
今まではそれで何とかやってきた、小さい頃は
いや、本当にそうなんだろうか
本当は小さいころはまだ不透明ではなくて、それはまわりの大人にははっきりと見えていたのだろう、だから必要なときに必要な手助けをしてもらえた
けれどもだんだんと不透明さが増してきて見えなくなった
見えないものに対しては気にかけるだけで自分のタイミングで助けることはできない
そして私もいつもいつも頼らない
不透明さは増して見えなくなり、私は自分から泣きつかない
そして今に至るんだろうね
不透明でも自分で何とか出来た事もあったかもしれない
不透明のつもりでも本当は見えていて助けられてきた事も少なくないと思う
けれども今は不透明さは強くなって、そして自分ではどうすることも出来ない事も増えた
だから私はその狭間でこうして自分だけを分析している
それで前に進めるわけではないのに、分析しないといけないものは外側にもたくさんあるのに
自分が置かれている状況、環境、世界のことも知らずに私はいつまでたっても自分の内側だけを覗き込んでいる
そこに映し出されているはずのまわりの景色を見えない振りをして、いや、本当に見えていないのかもしれない
私が、外側を見るその窓にも不透明さがあるのだろうか
ただ、私は自分の内側をひたすら眺めてぶつぶつ考えることをやめることは出来ない、これから先もきっと
そして不透明が完全に透明になることはない、間違いなく
だからこうやって不透明な中に閉じこもってああだこうだと定めている
Sukoshi・Futoumei (少し・不透明)