映画『ヒメアノ~ル』

 

森田剛なんてどこにもいなくてムロツヨシもいなくて濱田岳くんは濱田岳くんとしてそこにいるかのような自然さでした。でもムロさんは安藤さんでしかなくて安藤さんはもはやムロツヨシでした。でも森田剛はいなかったよね??あ,でも2回ほど剛くんをそこに見てしまいました。

 

エンドロールになってそれまで息を詰めていたことに気付いて,脱力とともに込み上げるものがあって,立ち上がって歩いているうちに少し吐き気がして,劇場出たあとの華やかなお店と人混みがただ流れる景色でしかなくて全然目に入らなくてこの世界には自分しか生き物がいないんじゃないかみたいな浮遊感の中でしばらくふらふらした。

森田の色々な声が,色々な表情が頭の中を駆け巡る。やっぱり森田さんの声はすごい,1回観ただけのシーンでもその声がそのまま耳に残っている。あと表情。ひとつの作品でこんなにも違う表情を,人格を出すことができるだなんて。

それにしても噂には聞いていたけれどタイトルの出し方!!!!!

ここできたかー!!!!!っていうよりもタイトルと「映倫/R15」が出たときのあの画,あの音楽にめちゃくちゃ興奮した。ぞくぞくした。音楽そのものはサイトで聴いていて聴けば聴くほど不安掻き立てられる曲・・・って思っていたのに,映画観終えた今あの音楽聴くとやたら興奮する。あの字体もたまらない。映画『ヒメアノ~ル』はこっからだからな!!!!!っていう本気がみえる。で,音楽が終わる瞬間。岡田とユカちゃんの日常と森田の日常が繋がっていることを肌で感じる。

 

ということでヒメアノ~ル観てきたよ!森田剛すごかったよ!っていう感想にしてもいいのだけれど,私が書きたいのはそこじゃないのだよ!!でも思いっきり内容に触れるからそれ以外のことを先に書いたまでだよ!!私が書きたいのはラストについてでひいては原作踏まえた森田という人物についてだよ!!というわけで続きを書きます。原作読んで映画を観た上で感じたことを書きます。

 

 

 

*     *    *

 

ねえ,ラストに救われた!!!!!????? 

感動した?????

私はそこに「優しさ」は感じなかった。言ってしまえば,そこに見たものは「残酷さ」だった。これはもう監督の意図がどうこうではなく観客のひとりとして観る側,受け取る側の感覚なのだろうけれど。森田くんは岡田のことを覚えていなくて殺す相手としか思っていなかったのに,車をぶつけた後,初めて岡田がいることに気付いたかのように話しかけて,もうそこが本当に怖かった。何が起こっているかわからなくて血だらけの顔と無邪気な声が本当に怖くて呆然と見ているしかなかった。引きちぎられた脚からのあの笑顔だよ??「岡田くん,またいつでも遊びに来てね」って手を挙げるんだよ??銃も包丁も何も持っていない手を。

ここで終わっていたら岡田が見たそれとして,卑劣な殺人を繰り返してきた森田は逃亡中に起こした事故の衝撃でおかしくなってしまった,かつてこんな会話もあったのだろう,でも彼はついに捕まった,あの血だらけの笑顔が目に焼き付いている・・・みたいな感想になって(実際,あの笑顔からは目が離せなかった)"過去は垣間見えたけれどあくまで連続殺人者"としての森田で終わっていたと思う。

だからこそ,ここで終わらせないことが,あの頃のシーンを見せることがむごい。森田と岡田が初めて交わした会話,日常になっていたのだろうふたりの時間,森田が人を殺す前の時間。正直に言ってもいい??・・・私,岡田を憎く思ったよ!!!これはもう理由がどうとかではなくて感情の話として。岡田は確かに森田と親密な時間を過ごしていたんだよ!「あのときのことを怒っているんだよね」ってそんな次元の話じゃないわ!!!!!でも実際に映画を観ているときは,森田の隣にいるのが岡田かどうかはあまり大事ではなくて,あの明るくてやわらかな光に包まれていた時間を目にしてしまうと,ずっと一定の距離を保って見ていた森田がいつの間にかすぐそばにいて突き放すことが出来なくなってしまっていた。けれどもこの森田はもういない。私たちがずっと見てきた森田は初めから殺人者だったわけではないという意味で救われた人もいるかもしれない。たとえ一瞬でもあの頃の穏やかな時間を思い出したことは森田にとって幸せだったのだと感じる人もいるかもしれない。でも私はそこに救いも優しさも見ることはなく,残酷さに打ちひしがれていた。だって,今の森田はあの森田なんだよ??あのような日々を過ごすことはきっともうないんだよ??殺しこそしていなかもしれないけれどああやって生きてきたんだよ??もう手にいれることはできないはずの過去を最後に見せるってものすごく残酷じゃない??

それでね,もう手に入れることができないと私が思ったのは,あの,最後の,森田の"目"なんだよ。母親をまだ「お母さん」と呼ぶあどけなさ,振り返ったときのあの横顔,そしてあの目,瞳。びっくりした。これはもう森田剛という役者に対する畏怖でもあるけれど,あんなに違う"目"をすることができるんだね。真っ直ぐできらきらしている目。あの目に釘付けになって息が止まっているあいだにエンドロールが始まっていた。血だらけの笑顔よりも,私はあの目が頭から離れない。

年齢不詳と言われながらも同じ人が高校生時代も演じるというのは実年齢的に難しい部分もあっただろうけれど,あの最後の目を見て,これは森田さんが,人を殺しまくる森田正一を演じる森田さんが演じないといけなかったんだとすごく思った。そして私たちはそれを目撃しないといけなかったのだと。森田さんが演じるから,あのやわらかな光の中にいる森田正一と暗闇の中にいる森田正一は同じ人物だと認めざるを得ない。それがとても苦しかった。

 

たとえ同じものを見ていても人が抱く感情はそれぞれだから,色々な受け止め方があることは理解している。こんな作品のこんなラストなら尚更かもしれない。もっと言えば,ひとことで表せるほど単純な感情ではないのかもしれない。

映画を観た時点でがんがん他の方の感想も読んでいたのだけれど,感じ方,解釈は色々あって,"映画としての作り方,終わり方"という見方もあってそれはそれでなるほどと思った。私は映画を作る側に立ったこともないし作り手の何かを語るほど本数を観てきたわけではないから,自分の感情しか拠るところはないわけだけれど,それでもあのラストがあるのとないのとでは全然違うというのは強く思った。

 

そしてもうひとつ思うのは,私が原作ありきでこの映画を観ていて,映画では描かれていないものを勝手に補っていたのかもしれないということ。以下は原作の内容を踏まえて。私は映画化が決まってから原作を読んだわけだけれど,原作も好きというか私のなかに何かを鈍く残すものだった。

 

 

*     *    *

 

 

原作での森田に関しては彼の思考や行動理由が見えるかたちになっていて,そこにあるのは「生まれながらにしてフツーではない自分への絶望」で,極め付けがあの2ページなのだけれど,映画の森田は果たしてどうだったのか・・・でもあの描き方から察するに,いじめといじめによって否定されてしまった人間関係が森田を大きく変えてしまったということで,その結果として森田は人を殺して快楽を得る,ということになるのだろうか・・・快楽に気付いてしまったのもまた元を辿ればいじめという。この時点で,原作と映画の森田は根本的に違うと思っていて,派手に切り替えたなっていう印象なのだけれど,やっぱり映画の方が残酷なのかもしれない。個人的には原作での描かれ方が好みなのだけれど,それって結局,"私は森田ではないけれど""その理屈はわかる"っていうある部分には一線を引いている傲慢さがあるかもしれないわけで。でも映画の森田は穏やかな時代から次々と人を殺す森田まですべてを受け入れざるを得ない。

日常と狂気。第三者的な目線の,たとえばひとつの街で同時に起こり得る日常と狂気。自分の何てことなかった日常に突如介入してくる他人の狂気。そして何もなかったはずの自分に芽生えてしまった狂気。前者2つは原作でも描かれていたけれど,最後のそれは映画のものでありラストによってそれまでのストーリを大きく変えてしまうくらいのほどの力があった。だから怖い。森田は自分とは異なる世界の人だなんて言えなくなってしまった。だから残酷。それまで外側から,でもじわじわと自分の日常を重ねながらみてきた観客を一気に同じ側に立たせてしまう。全然優しくない。

けれども私のなかにある感覚は原作の森田のものだよ。この相違を説明するのは難しい。

 

 

じゃあ森田自身は自分がやっていることについてどう思っていたのかというところで,私がこの映画のなかで,ああ・・・と胸を打たれた言葉,それはこのひとこと。

 

「そうだよ」

 

森田が安藤さんに「おまえ,やっぱり頭おかしいやつなんだな」と言われてリュックのなかにある銃を探しながら何てことないように返す言葉。森田は自分の異常さを認識しているんだ・・・ってすごくすごく哀しくなった。あのラストを観て,原作の森田とは全然違うんだってなった後,このシーンを思い出して,森田の声を思い出して,原作の森田と少し重なった。もちろん原作通りであることが正しいわけではないけれど,私はたぶんそこに救いをみたのだと思う。"フツーではないことを自覚している森田の人間らしさ"に。

 

映画では森田の内面はほとんど描かれていない。漫画を映画にするという表現手法の変換がある以上,原作通り=良い映画だとは思っていないし,それはもはや別の作品なのだと普段から思っている。だから尚更,森田をどのように描くのだろうということに興味があったし,それゆえに,どこかで自分の中にある原作に基づいた森田と照合するかたちで映画の森田を見ていたのかもしれない。森田にとって殺人は快楽なのだろうか,性的興奮を感じるのだろうか,いつからそれを自覚していたのだろう,森田はなぜ人を殺しているのだろうか・・・けれども本来,映画の森田にはそういった検証を行うべき仮説はないはずで(原作を読んでいなければ知らないこと),なんだかよくわからないけれど,そのときの一時的な感情で,ただ邪魔だから,腹を立てたから,都合が悪いから,犯したいから包丁を持つ,銃を持つ,それだけ,それが怖い。行動でしか見えないから怖い。わからないまま森田を不気味に思い,でもその状況は私がよく知っている日常でその境目のなさに怯えてしまう。それでいて物語らしく加速していく展開。ぎりぎりまで張りつめる緊張。そしてついに爆発。普通ならその後ゆるやかに終息していくものなのに,確かに画面の質感はものすごく穏やかなものになるのに,車の激突とともに砕け散った何かが再び巻き戻されこれまでとはまったく違う形を作り始める。なんだかよくわからなかった不気味さに,森田の行動に解釈の余地が生まれてしまう。それでいてすぐには消化できない余韻を引きずったまま観終えてしまうのかなと。

原作でのあの2ページを含むラストは,それまで森田がつらつらと語ってきたその思考に感情がぶわっとのせられて「ああ,そうだったんだ・・・」ってなるのに対して,映画の場合は,明確な答えではないにしても不意に新たな事実を見せらることによってこれまで見てきた世界ががらっと変わってしまう。「もしかして森田は・・・」と考えざるを得ない。映画という作品にするにあたっての脚本云々とかそういうことはわからないけれども,わからない上で,原作を読んで映画を観た私が感じたことを残しておきたかった。よく小説や漫画が映画化されると「原作と違うから不満」という感想を耳にするけれど,それはちょっと違うと思っていて。それって要するに「映画という作品として満足できなかった」ということじゃない?それを「原作との違い」のせいにするのは何というかずるくない?たとえ原作と異なっていてもひとつの作品として満足できるということをこの映画を観て監督のインタビューとかも読んですごく思った。

『ヒメアノ~ル』は公開前から言われていたように原作とは異なるラストだったけれど,映画として私は満足というか「映画を観た・・・」ってなったし,原作とはまた違う気持ちになって打ちのめされた。小説にしても映画にしてもドラマ,舞台にしても作品が終わったときにまだ何かがそこに残っている浮遊感って快感だったりする。

 

 

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私の感想は原作を読んだ上でのものだから原作を読んでいない人はまた違ったことを想うのだろうし,同じように原作を読んでいても人によって感じるものは全然違うと思う。そして私はこの映画のこのラストに対してこういう感情を持ちました。

原作の森田の"理屈"はわかるけれど私は森田ではない。でも映画の森田がいまの私の延長に絶対にないとは言えない。観終えたときのあの絶望,やりきれなさ,その後の数日間ふとしたときによみがえっていた森田のシーン,そして声。本当に最後の,あの横顔とあの瞳が目に焼き付いています。あの声と一緒に。