君が僕の息子について教えてくれたこと

 


君が僕の息子について教えてくれたこと|ドキュメンタリー|DVD

 

昨年8月に放送された本放送の録画をやっと観た。

ミッチェル氏と東田さんが対面し言葉を交わすところから後半涙が止まらなかった。どうして自分が泣いているのか,何に心動かされているのか,考えるよりも先に涙が溢れてきて次から次へと流れていった。でも間違いなく言えるのは,東田さんの言葉を通して感情が揺さぶられたということ。それは決して自閉症なのにすごい("なのに"という言い方も違うけれど),というように乗り越えた困難をみるからではない。ただただ純粋に,東田さんが紡ぎ出した言葉に,伝えたいことに,感じていることに揺さぶられるものがあったのだと思う。特に,ミッチェル氏が父親として自閉症の息子にどうすればいいかと尋ねたときの回答,対面したときのことを綴った中にあった東田さん自身が家族について思っていること,そして著書に書かれている自閉症の家族を持つ人たちに向けての言葉。今思い出しても鼻の奥がつんとなる。そして思うことは,それって自閉症の子どもだけが感じていることではないのではないかなということ。行動に理由があることも同じ。東田さんが跳びはねるように,タイヤを眺めるように,誰にだって嬉しいとき,ストレスを感じたとき,心を落ち着かせたいとき,自分なりの方法を持っていると思うから。子どもも,大人も。ただ自閉症の人の場合が取る行動は,そうではない人からすれば特異に見えるしその場に合わせてコントロールできないことが多いから,理解できないものとして線引きをされてしまうのかなと。理解できないもの,自分の経験や知識にないものには恐怖を感じる。そして苛立つ。わからないから。

 

自分が生きている世界の中で言葉が担っているものって相当に大きい。言葉がなくても分かり合えることはもちろんあるだろうけれど,言葉によって表現できるものは計り知れない。だって思考を表現できるから。桜を見て東田さんと同じような感覚になる人はいると思う。でもそれを知ることができるのは東田さんが綴った言葉があるから(もちろん言葉以外のもので理解できる場合もあるかもしれない)。

 

今でこそ,発達障害について取り上げられることは多いように思うけれど,どちらかというとその場合は通常学級や支援学級に在籍している,あるいは働いていて,一見何もないように見えるけれど実際はコミュニケーションや学習,日常生活でやりにくさを感じている人たちに関するもの,そんな印象がある。変わった人とか困った人と思われていたけれどそれには器質的な理由があるのですよという提示。それに比べて,たとえば東田さんのように会話が難しいようないわゆる重度の自閉症に対するものって少ないように思う。単にわたしが触れていないだけかもしれないし,世間の関心が今どこにあるかということかもしれないけれど。

だから翻訳本が出版され,ベストセラーになったということは,自閉症について,自閉症の人がどのように世界を見ているのかを知りたいと望んだ人がたくさん含まれていたからなはずで。自閉症の研究や療育プログラムは進んでも,それでも自閉症のことがわからなくて悩んでいる人はたくさんいるのだと。研究がどこまでそれぞれの家庭に繋がっているかにもよるだろうし,そういった支援を受けられる環境にあるかどうかという差も大きいだろうし,何より知識として知っている自閉症と,家族としての自閉症にはやっぱり大きな違いがあるのだと思う。自閉症にはこういう特徴があります,と言われても,それも結局は外側からその人を見て,あるいは示されたデータとして,ひとつの事実として伝えられる。けれどもじゃあ,自閉症の人が実際に"どうやって世界を見ているのか"を知ることは難しい。それをうまく伝えられないから。わたしたちがうまく受け止められないから。いわゆる従来のアスペルガー*1の人だったら,言語表出ができるという点では私たちに見ている世界,感じていることを教えてくれる手段を持っているけれど,それは"言語表現ができる彼らが感じている世界"であり,"言語表出が難しい自閉症の人たちが感じている世界"ではない(前者は言葉のやりとりはできるけれど相手の意図を汲み取ることが難しい,といったような経験をしている世界だろうし,後者は言葉そのものを発してやりとりをするということが難しい自分がいる世界だろうから)。だから,言語表出が困難な人たちが言葉でのやりとりをどのように感じているかはその人たちにしかわからないことであり,それを文章という形でわたしたちに伝えてくれる東田さんという存在はとても大きいのだと思う。

けれどもやっぱりそこには東田さんが綴る言葉が持つもの,というのはあるように思えて,自閉症だから,とか自閉症の自分について書かれていることとか関係なく,東田さんの言葉には感情を揺さぶられるなと,東田さんのブログ(東田直樹 オフィシャルブログ 自閉症の僕が跳びはねる理由)を読みながら思った。

 

東田さんとミッチェル氏が会話をしているときの空気がとてもいいなあと,温かい気持ちになった。海外講演で東田さんが文字盤ポインティングではなく原稿を読み上げていたのは気になったけど。本人が読み上げてはいるものの,あれはいつもの東田さんのコミュニケーションの取り方じゃない。日本語がわからない聴衆なら,東田さんがどのように読んでいてもスライドの英語を追うから構わないのかな。聴き手が多数で時間制約もあるような講演という形式をとっている以上,そうせざるを得なかったという点は多々あるのかもしれないけれど,何かすっきりしなかった。

 

跳びはねたりまわるものが好きだったり,自閉症の人たちに多く共通している部分もあるけれどすべてが一致するわけではない。でも何かとっかかりを得ることで,少しの理解,知識が空白部分に対する想像の余地を広げる。空白は「理解できない得体の知れないもの」から「いまだ知らない,見えていないだけの新しい発見ができる場所」となり,発見と理解を到達点にした思考が始まる。それはわたしたちが日常の中で何度も繰り返す「あの人,なんであんなことしたのだろう」と同じなのだと思っている。それを考えるときの手がかりが他の人よりも見えにくい,自分の経験を参考にできない,そもそも半ば始めから探索を放棄されていたような場合において,東田さんの言葉は,まさにその人が自分に語りかけてくれているように響くのだと思う。

 

 

自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心

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The Reason I Jump: The Inner Voice of a Thirteen-Year-Old Boy with Autism

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*1:2013年にアメリカ精神医学会のDSM精神障害の診断と統計の手引き:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)が改訂。自閉症の診断基準が変更され,診断名が「自閉症スペクトラム(障害)」に統一されたことに伴いアスペルガー症候群を含む下位カテゴリが消失した。