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きらきら

“永久未来続くものなどあるはずはないから これで行くさ僕は僕を壊してく”

i am

 

悲しいから泣くのか泣くから悲しいのか。

 

きっとまたそれを事実として眺めるだけなのだろうと思っていた。動揺やましてや涙なんて浮かべないのだろうと思っていた。

最近のわたしはそうだったから。いわゆる世間的に"大変な" "辛い" "やりきれない"といった表現が伴われるような出来事を見聞きしたとしてもわたしの感情が揺れ動くことは少なかった。時に,自分はなんて冷酷なのだろうと評してしまうくらいに。そこにあるのは,人はいつかはみな死ぬのだから,人生何が起きるかなどわからないのだからそういうこともあるのだろう,という傍観者の装いと,どういう心情なのかはその場にいる人に,その人にしか知りえないのだから,他人が軽い言葉で寄り添おうとするのは傲慢だ,だから軽率に共感なんてできない,という線引き。でもそれは一度踏み込んでしまったら敏感な自分は必要以上に傾いてしまうという恐れからくるものなのかもしれない。傍観者が一番楽だから。自分に引き寄せて感情を移入しないように意識的に距離を保っているような気もする。それでも結果として,"そういうこともあるのだろう" で完結させてしまったときには,自分が少し怖くなる。そんなにまわり客体化して切り離してるのかと。

 

そんな頭でっかちなのに,いざ目にすると,見ると,聞くと,自分の意志などお構いなしに視界が滲むのは昔から変わらない。はっきりとした感情は浮かんでいないのに勝手に身体が反応する。

この間もそうだった。状況は知っていたしそれに抗いたくなるような否定の気持ちもなかったしむしろ自分は何も心動かすことなどないのだろうかとそんなことを不安に思っていたのに,なのに。気を許せば込み上げてきたものがそのまま外に出てしまいそうでそれを押さえるのに必死だった。言葉を出してしまえば,それらが一緒に放たれてしまいそうで,だからひたすら我慢をした。

言葉にはできない感情が身体から外に出たがっていた。

そしてそんな自分に驚いた。やっぱり自分が体験するというのは大きいのかもしれない。

 

昔からそんなつもりはないのに涙がすぐに溢れることが多くてそれがとても嫌だった。条件反射か生理学的なものなのか。自分の感情を伴わずに出てしまう涙。でも相手から見えるのはまだ自分も把握できていない感情ではなく,目に見える涙。悲しいから泣いているわけではないのに。今も変わらない。

 

それでも思考は,相手を完全に切り離して考えている。わたしだって明日どうなるかわからないし。そしてわかったような言葉をするくらいなら何も言わない。何も言えない。だってその人の心情を自分の心情のように100%理解する,同じように抱くことなんて出来ないから。それでも"思いやる" "考えてみる" ことはまた別の話。一時,それすらも勘違いしてしまっていたことがあって,そのことに気付いたときには自分自身に驚愕したしそんな自分が情けなかった。

 

思考と感情。わからないままに涙する。

"いつか終わるから" という言葉ですべてを客体化するのもまた傲慢なのかな。多かれ少なかれ身を投じるというのはエネルギーを要するものだから。そういうことを避けたいがための予防線なのかもしれない。

 

 

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