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きらきら

“永久未来続くものなどあるはずはないから これで行くさ僕は僕を壊してく”

終わる日

 

どうして突然、私の中の私を意識したのだろう、久々に

と思いながら記憶を辿ってその発端を思い出した

 

これもまたきっかけはあやふやだけれど、たとえば明日、私が終わってしまっても未練はないなと、そうふと頭に浮かんだから

たぶんこれが引き金、その後続けて思考が連なったわけではないけれど

 

終わってしまっても特に未練がない、というのは差し迫った状況でもなくのうのうと生きているおごりでしかないし、まわりの人達のことを一切無視した自己中心的な視点でしかないけれど、そういうことをあえて排除して、自分だけに限定した場合、あっさり手放せるものばかりなんじゃないかと、そう思ってしまった

 

あるとしたら、SOPHIAが五人揃うところを見たかった、もちろんライブで、あとはV6の20周年を目にしたかった(そのときはSOPHIAも20周年ですが)、それぐらい、え、それぐらいですか、となってしまうのは否定できない

ということは、私はそんなに何かに執着して生きているわけではなくて、それって今を精一杯生きていないということになってしまって、そういう私ってどうなの、と思い出すとまた沈んでいきそうなのでやめておく

 

けれども私の中にはいつも、明日生きているとは限らない、というのがあって、でもそれって死を、生を、軽んじているようにも思えるのだけれど、あくまでまわりの人達を排除して自分だけの都合で考えたときの話

けど、子どもがいるかどうかは大きな違いになりそう、子どもに対するものも様々だとは思うけれど

 

基本的に生きるなんて面倒なことばかりで、それをまぎらわしてくれる楽しい(と自分が思える)ことがどれくらいあるか

美しく言えば、面倒なこともどれだけ楽しめるか、とか、嫌なことから何を得るのか、といったことになるのだろうけれど、それはわりと後からの意味付けじゃないのかなと

面倒なことに関わっているまさにそのときって、頭ではわかっていても素直な感情では他のことで浄化したい!と思ってしまうのではないかと、少なくとも私は人生をやり直したいと思っているわけでもなければ野望もない、これだけはと必死になる何かもないし執着するものもない

生きるのは面倒だけれど、実際今の状況を省みるとそうでもない、それほど窮屈な思いをしているわけでもなく楽しいこともわりとある、逆にその少し地から浮いてしまっている自分の不安定さに怖くなるだけ

 

“生きる事”の意味なんてさ誰も知らないけれど、“生きたい”と思う事の意味ならば少しは唄える、と歌った当時の松岡充26歳

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